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牧師 指方 信平(さしかた しんぺい)
牧師 指方 愛子(さしかた あいこ)
伝道師 野田 祥(のだ しょう)
説教

五千もの人が5つのパンと2品の魚料理を分け合って満腹した話は、共観福音書(マルコ、マタイ、ルカ)にも載っています。3つの福音書は、みんなが満腹して、イエス様が残ったパンの欠片を弟子たちに集めさせると、欠片だけでもたくさん残っていた、というところで終わります。ヨハネによる福音書も、そのところを描いていますが、そこでは終わっていません。その続きに、14節〜15節が加えられています。ここに、ヨハネだけのメッセージがあります。僅かな量の食事で五千人以上の人のお腹が膨れ、残ったパンの欠片で12個の籠がいっぱいになった。本当に不思議なことが起きています。やはり、実際にそういう出来事を目の当たりにした人々は、何かしらの反応をせずにはいられないのが当然でしょう。その正直な反応として、群衆は、「イエス様こそが、待ちに待っていた救い主だ」と言いました(14節)。さらに彼等は、イエス様を連れて行こうとしました(15節)。それに対してイエス様は、「ひとりでまた山に退かれた」のでした(15節)。イエス様は救い主としてこの世界に来たはずなのに、なぜ救い主だと慕う人々から離れるのでしょうか。イエス様のこの行動には疑問が湧きます。

実は、群衆が思っている救い主と、イエス様の救い主としての使命とは、違いがありました。群衆が思う救い主のイメージは、「王様」という意味も含んでいました(15節)。当時は、ローマ帝国が幅広い領域を支配していました。その世の中とは、少なくともイエス様たちユダヤ人にとっては、居心地の良いものではありませんでした。たとえば、ローマ皇帝たちは、帝国の中心であるローマに住むごく限られた人々に、パンを無料で配っていたそうです。無料で配るパンは、支配している地域から支払われた税金で買っていました。ユダヤ人からすれば、自分たちのパンを買うお金が、ローマ人のパンを買うために使われていることに不満を感じていたはずです。そのような不満でいっぱいだったユダヤ人たちに、イエス様は、ひとりの少年からパンと魚を受け取り、分け与えたのでした(11節)。群衆は、満腹するくらいのパンを与えてくれたイエス様こそが王様になってくれたら、と考えたのでした。しかし、イエス様は、そんな群衆の前から立ち去りました。王様になってすべてを支配するために、この世に来たのではないからです。そうではなく、神さまがしようと思うこと、それを成し遂げるためにこの世に来たのです。それは、すべての人に、ユダヤ人もローマ人もひっくるめて、永遠の命を与えるためです。

ところで、人生の歩みを進めていくことを、レールに喩えられることがあります。電車はレールの上だけを走ることができるので、生きて行く道筋をレールというのです。自分の人生を振り返ってみて、あるいはこれからをどう生きるかを考えるとき、そこには「自分らしさ」が確かにあった/あるでしょうか。将来の自分を計画していく際、やはりどうしても周りの人たちから様々な言葉を受けることがあります。しかし、ここで注意したいのは、人生経験が豊富な人たちから受ける言葉は、自分の人生の道筋を豊かにするためのものなのか、それともその人が敷いた人生の道筋の上を歩かせようとしているのかの判断が必要です。わたしは、イエス様が群衆の期待に応えず、独り立ち去った姿に、いまを生きるすべての人への励ましを見るのです。群衆たちはイエス様を自分たちの王様に担ぎ上げることで、自分たちの理想や都合の中にイエス様を押さえつけようとしました。しかしイエス様は彼等の思い通りにはなりませんでした。人の顔色ばかり気になって自分の意思を主張できずにいる人々に、イエス様は、そんな生き方から立ち去ることを、周りからの期待から逃げることもときには必要だと言ってくれているのではないでしょうか。

群衆から離れたイエス様が、再び人々の前に姿を現したとき、こう言いました。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」と(33節)。また「わたしが命のパンである」とも(35節)。自分をパンにたとえたイエス様がどうやって命を与えたのか、それは十字架刑による死とそこからの復活です。イエス様は傷だらけになって、体を裂かれる痛みを負って、死にました。しかし、ちぎって割かれ食べられたパンが体の中で栄養になるように、死んだイエス様は復活によってわたしたちの内に命を与えました。それこそが、イエス様が群衆の期待を蹴って為そうとしたことであり、神さまが成し遂げようとしたことです。ヨハネによる福音書の冒頭には次のようにあります。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった(1章4節)」。イエス様が死んでまで人に与えようとした命、それはすべての人を照らす光です。一人ひとりが神さまから光を受けて生きるためにイエス様の命があるのです。あなたが、あなたらしく光輝いて生きるために。自分だけの特別なレールを神さまに光照らされて歩むのです。

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