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手紙の宛先であるローマの教会では、深刻な問題が起こっていました。1章〜4章によれば、どうやら、教会の中で差別が行われていたようです。キリスト教はユダヤ教から出発しました。そのユダヤ人と、ユダヤ人ではない人との間で起こっていた差別です。それは、だれが神様の目から見て正しいか、罪深いかという差別です。ユダヤ人は、律法書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を特に大切にしています。律法という言葉の通り、日常生活をする上でのルールがびっしりと記されています。しかもただのルールではなく、律法を守ることが、神さまが救ってくれるための契約であるとしています。
しかしながら、律法を守りながら生活をするというのは、やはり無理があるのです。前提として、律法の中でひとつでも守れないことがあれば救われない、とされています。すると、律法を守れないままだと神さまとの関係が悪いままなのはもちろん、人間同士の関係も悪くなってきます。そんなボロボロな中で、平和をもたらすために、イエス様がやって来ました。ただ救い主イエスによってのみ、神さまへと向かっていく平和が与えられている、救いへと向かうことができるのだ。そのように、パウロは訴えています(1節)。

わたしたちは、社会の中で生きている限り、点数や業績といった、周囲からの評価が常につきまとっています。しかし、わたしたちが忘れてはならないことは、点数や業績=自分の価値「ではない」ということです。社会の評価は、自分に課せられた責任を全うするうえでは、必要なことではあります。しかし、人間そのものと見るとき、その人個人として接するとき、そこには成績の高い低いだとか、能力の優劣が入り込む余地がありません。それらは、その人が生きて行く中で努力して得たものであって、後から付いてきたものです。それら、自分が頑張りに応じて獲得してきたものをすべて取り去って残った存在、それこそが、一人の人としての自分そのものです。
教会は、この世と密接につながりがあります。この世の中に教会があり、教会の中にこの世があります。なぜなら、わたしたち皆が、いまの現実の世の中を生きているからです。また、生きて行く中で、この一週間でふと湧き出た気持ちや、長い間ずっと心に抱えている思いがあります。一人ひとりがそれぞれに現実の世界で得た思いを教会の中に持ち込んでいます。ですから、教会は「社会の縮図」ということができます。
ただし、社会の縮図といっても、教会に集う者同士がお互いに尊敬の念をもつのは、地位や名誉によるものではなくて、一人ひとりが神さまに命を創られ、愛されているからにほかなりません。一人ひとりが、人間の感覚では計り知ることのできない価値の高い、尊い存在なのです。そこにおいては、ありとあらゆる評価や肩書きを脱ぎ去っています。神さまの前では、だれもが空っぽな存在です。すると、わたしたちは2つの現実を生きていると言えます。ひとつは、信頼を得るために、周囲の評価に晒されている現実。そしてもうひとつは、いついかなるときも、自分は神さまに愛されている現実です。ひとつめの現実で得るのは、勉強の面では「点数」に現れ、労働においては「報酬」に現れています。そして、もうひとつの現実で得るもの。それは、恵みです。優秀だから、信頼があるから、資格があるからではなく、神さまがあなたをえこひいきしているから貰えるものです。

ローマの教会で為されていたのは、自分自身がどれだけ律法を守って生活できたかの判断でした。これもある意味で目に見える評価です。自己採点した評価を相手に押しつけ、自分の評価を基準にして相手を貶めることは、神さまの前で正しいことだろうか、そうではないはずだ、とパウロは訴えました(2章1節〜3節)。そのパウロは、「ただ信仰によってのみ、人は正しくされる」と言います。「神さまは真実だ」「神さまには嘘偽りが無い」ということだけが、人を正しい人にするのだと。わたしは、神さまへの信仰の始まりは、神さまから愛されていることへの気づきであると思います。信仰は神さまが愛を通して与えてくれるものであると思うのです。また、イエス様は神さまの嘘偽りの無い愛そのものです。イエス様は、律法から外れて生きざるを得ない人々、つまり世間の人々から0点、評価するに価しないとされた一人ひとりに、だれもが神さまからもらっている特別な価値があることを宣言した方でした。

わたしたち一人ひとりは、神さまがイエス様の命を与えてまで愛を受けている存在です。そんなわたしたちだからこそ、神さまはどんなときでも希望を残しておいてくれます。この世の現実で受ける苦難、その苦しいことに耐えていくことが、嘘偽りの無い本物は何か、こんな自分を大切にしてくれている存在はだれかへとつながります。苦しいことの先に希望を残してくれる存在はだれなのかを確かめるのです。信仰の始まりは愛されていることの気づきです。そして信仰を保つことは愛されていることの確認の繰り返しです。この繰り返しをして行く果てに、愛が溢れ出る自分になって、胸を張って生きる人で溢れるこの世になることを祈り願います。

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