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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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ペトロともう一人の弟子が墓を去ってから、どのくらい後でしょうか。マグダラのマリアは再び墓の前にやってきたのです。泣いていました。誰が主の遺体を取り去ったのか。せめて遺体があれば涙することができるのにそれすらできない、悲しみと酷い戸惑いの入り混じった涙です。泣きながら身を屈めて墓の中を見ると、白い衣を着た二人の天使が見えました。

先の二人の弟子たちには見えなかった天使という特別なものを見る目が彼女には与えられているのです。それでもまだ、彼女の心は、主が「取り去られた」との思い込みに囚われたまま、主の復活の事実は見えてきません。

どんなに不思議な現象を目の当たりにしたとしても、信仰とは見ることによるのではありません。マリアは後ろを振り向き、そこにイエスご自身が立っておられるのを見ました(14節)あれほど探し求めていた主イエスを前にしても、マリアはその人が墓苑を管理する園丁だと思ったのです。

墓の入り口に向かって振り返った時、墓に差し込む光が逆行となって、イエスの顔が認識できなかったという話ではありません。見えているのに、心は堅く閉ざされているのです。この物語の後には、あのトマスの物語が控えています。主イエスの手と脇腹に指を入れなければ復活など信じられないと言ったトマスに対して、「見ないのに信じるものは幸いである」と言われました。ヨハネ福音書は、主イエスの復活を心で見るよう繰り返し促しつつ、「草場の影に」「お隠れになっている」イエスではなく、甦って私たちの真ん中に立っておられる主を知らせているのです。

「マリア」そう呼び掛ける主イエスの声を聴いた時、彼女は再び振り向きました。そして「ラボニ」(先生)と返事しました。マリアは二度振り向きました。最初は、肉の目で、そして二度目は心の目で。主イエスの呼びかけは、彼女の心の目を振り向かせたのです。

「ラボニ」と、あえてヘブライ語のまま記されています。マリアが口にしたそのままを記す必要がどこにあるのでしょうか。その言葉が、世界で初めて復活の主イエスに出会った人間の言葉であると思う時、この言葉は、とりわけ大切にされ記憶されてきたのです。復活の主に最初に出会った人の最初の言葉は、恭しく飾り立てられた美しい賛美の言葉ではなく、ただ一言「先生」と言っただけなのです。しかしその一言に、主に新たに出会った喜び、驚き、親しさすべてが詰め込まれているようです。自分の目で見るのではなく、むしろ主によって見られている、知られていることをマリアは知りました。「マリアーラボニ」といつも呼び掛けあい互いの絆を確かめあってきたように、今日も私の名を呼んでいて下さり、私もまた呼び掛けることができる、その平安が私たちにもあるのです。

「マリア」と呼び掛けるその声は、彼女の記憶を呼び覚ましました。ただ過去の記憶としてではなく、甦りの主との新たな交わりの始まりが心に記されたのです。

札幌北光教会は、創立120周年を迎えんとしています。その長い歴史を振りむけば、主イエスに愛され、導かれてきた恵みの記憶、証しが沢山あります。しかし、決して懐古主義に陥ることなく、甦りの主は新たに出会おうとして、私たちを心新たに振り向かせようと名を呼んでおられます。さぁ、ここから始めよう、と。

「120年」と言えば、モーセの生涯と同じです。ピスガの山頂で死を迎えた彼の目は霞まず、活力も失せていませんでした(申命記34:7)。その輝く目、衰えることのない活力とは、彼が見つめ続けた神様の霞むことのない目、衰えることのない活力を繁栄したものではなかったでしょうか。モーセは120年で生涯を閉じました。北光教会も120年で終焉でしょうか。いいえ、霞むことのない主の目に見出され、復活によって示された主の活力に導かれて、ここから新たに振り向いて歩み出して行くのです。

「もう離さない。あなたは私のもの!」とせっかくお会いできた方にしがみつくマリアに、主イエスは言いました。「わたしにすがりつくのはよしなさい」。これはマリアに対する拒絶ではなく、解放です。マリアにとって主イエスとは、もはやしがみつき、すがりつき、イエス様をなんとか自分のものにしようなどと思う必要などない。今、この方の声の中で、この方の命の中でこそ今自分が生きている事実に振り向かされたのです。

ここからまた私たちは歩み出します。それぞれの人生の課題、不安、傷がある世へと。もしかすると「わたしには希望などない」と、希望を墓の中に埋葬してしまっているかもしれません。しかし、埋葬されたわたしたちの希望は復活したのです。心を振り向かせ、私の名を呼ぶ主の声と共に歩み出しましょう。

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