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北光教会のバザーは毎年2月、さっぽろ雪まつりに合わせて行われています。本日バザーを楽しんだ後には、今年は少し遅めですが受難節が始まります。北光教会の特徴は、バザー後に受難節を迎えていくというサイクルを持っている教会だという点です。

昨年夏にオリンピックがあったリオデジャネイロと言えば、「サンバカーニバル」で有名な都市です。「カーニバル」と称した催しは世界中で行われていますが、ラテン語の「カルネ・ヴァーレ」(肉よ、さらば!の意)が語源です。灰の水曜日の前日に、たらふく食事をし、楽しく騒いだりした翌日から、肉を断って受難節を過ごしたことが、「カーニバル」(謝肉祭:肉を謝絶する祭)の本来の目的です。この点で、受難節を前にした2月の教会バザーもカーニバルと言えるかもしれません(多少、無理やりですが)。

断食は、ユダヤ社会に広く根付いていた習慣でした。それゆえ、主イエスも群衆に対して、断食について教えておられます。「断食する時には、あなたがたは偽善者のようであってはならない」(16節)と言われます。いかにも苦しそうな顔をしながら、「私はこんなに努力していますよ」、「私は信仰深い者ですよ」、「わたしはあなたとは違うんですよ」などと装ってアピールするな、ということです。断食を、自分の功績であるかのように思って振る舞っている人は、「既に報いを受けている」(16節)と言われます。つまり、自分で自分を評価して「自己満足」という報いを与えてしまっているというのです。

断食に限らず、私たちは自己満足という誘惑に囲まれているものです。北光教会には、古くから「右手の箱献金」というものがあります。この箱に誰がいくら献金したかは公にはされません。秘かな愛の業として献げられ用いられるのです。これは、「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6章3節)、との教えに基づくものです。これは、自分の業を誰かに伝えてはならないということ以前に、自分自身に伝えない(自己満足しない)という意味でもあるでしょう。右手から左手へというほど簡単に私たちは自己満足に陥りやすいのです。

これに対し、神様がお求めになる断食とはどのようなものでしょうか。
イザヤ書58章を合わせて読みました。イザヤを通して、神はこう告げておられます。
4節以下「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、くびきの結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、くびきをことごとく折ること。さらに、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと」。

神の求める断食とは、ただ食を断って苦しい顔をするということではなく、自分よりも厳しい状況にあるものを知り、分かち合い連帯するという、他者に対する生き方そのもののことなのです。主イエスは、しばしばこの世の差別や偏見、排除という状況に置かれている人々と共に食卓を囲みました。それが神の国の姿を現していたように、主イエスにとって、食を断つということもまた、それは悲しみやひもじさを分かち合う、神の民としての連帯の証しなのです。
あの二匹の魚と、五つのパンの物語は、飽食の奇跡ではなく、むしろそこでこそ、まことの断食の姿がある、すなわち貧しさを分かち合い、豊かさを分かち合う姿があると言えるのです。それこそが、まことに大きな報いだと言えるのです。

「肉よ、さらば」。それは、ただ肉を断つという意味においてではなく、私たち自身の内に潜む、自己満足という「肉の思い」への別れの言葉としたいと思います。互いに、主の愛に生かされ、主の赦しに支えられたものとしての存在を喜び、尊び合い、あるいは痛みを覚え合う、そのような交わりをこの場所に表していきましょう。

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