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イエス・キリストは、ガリラヤ中を巡り歩いて御言葉を語り、病を癒やし、悪霊を追い出していました。移動手段は徒歩、何十qも行ったり来たりしながら働いてようやく「家」へ帰ってきた。その時に、休む間もなく、再び群衆がイエスの元へ集まってきたのです。「一同は食事をする暇もないほどであった。」と書かれていますから、イエスと弟子たちは、くたくたに疲れ果てたので休憩を取ろうとしたけれども、人々のために更に自らを犠牲にして働いて下さったのだということが分かります。

しかし、そのようなイエスの働きを家族は全く理解していませんでした。家族たちは、イエスが「あの男は気が変になっている」という噂を聞きつけてイエスを取り押さえに来るのですが、「取り押さえる」という言葉は、犯罪者を「逮捕する」というのと同じ意味の言葉です。自分の身を削るようにして人々を愛して下さったイエス・キリストの「気が変になっている」と本気で信じ込み、悪い評判がこれ以上広まらないように捕まえてしまおうという勢いが感じられます。

さらに、エルサレムから下ってきた律法学者たちというグループもイエスの元へやってきて、「イエスは悪霊の頭、ベルゼブルに取りつかれている」と宣言しました。この人たちは、当時のユダヤ社会と政治の中心を担っていたエリートたちです。彼らは「最近噂になっているイエスとはどんな男だろう。どんな力を持っているのだろう」という事を確かめに来たのです。彼らはイエスの元へきて、力ある業と御言葉に触れ、弱り果て打ちひしがれていた人々が力と希望を与えられて元の所へ帰って行く姿を目の当たりにしたのです。しかし、イエスは当時の社会を痛烈に批判していたので、その不思議な力を「神の力」であると認められず、「サタンの力で悪霊を追い出している」と判断したのです。これが、イエス・キリストを取り囲む状況でした。一番信頼してほしい家族には全く理解されず、心と体を尽くして人々を愛しても、それは「悪霊の仕業」とされるのです。

私たちは、自分の心を込めて誰かのことを大切にしようとして理解してもらえなかったとき、評価してもらえなかったとき、それどころか批判や否定をされた時、「もう一生懸命やっても無駄」「頑張っても自分が損をするだけ」「自分だけを大切にすれば良い」そのように思ってしまうのではないでしょうか。愛することも頑張ることも、何の意味もない。そのような無力感を覚えたり、諦めの気持ちを抱くのです。しかし、イエス・キリストはこの状況の中で、愛することをますます深くして宣教の業を進めていくのです。ここに神の御心が現れているのです。

28節に、「呼び集めて」と書かれています。この言葉は、直前の箇所で十二使徒を選出した際に、イエスが「呼び集めた」と同じ言葉が使われています。つまり、イエスは弟子たちを招くように、自分を批判し、ゆくゆくは自分の命を奪おうと画策する律法学者たちを招き、弟子たちと同じように語りかけられ、愛されたということです。29節、「聖霊を冒涜する者が永遠に罪の責めを負う」聖霊とは解釈が難しいところですが、「今この世界に生きて働く神の力」と言えば間違いではないでしょう。「この世界に神が働いてくださり、私たちを愛してくださっているということを否定してはいけない。」そう諭されたのでしょう。

イエス・キリストの道は、終着点の十字架だけでなく、そこに至るまでの道のりも険しく苦しいものでした。しかし、イエス・キリストはその中で神の働きと愛を信頼し、全てをなげうって、敵も味方も関わりなしに愛してくださったのです。辛い時でも、苦しい時も、自分にとって愛しやすい人も、愛しがたい人も、全ての人を愛し抜かれた、その御心を見つめてレントの期間を歩んでいきましょう。

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