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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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ユダヤ教社会では成人は13歳でした。成人とは、神の前に律法を自分の責任で守る生活ができる年齢ということです。12歳の少年イエスは、成人教育の一環として両親に連れられ神殿巡礼の旅に出かけたのでしょう。ナザレからエルサレムまでは約100キロ、数日かかる道のりです。
神殿の祭が終わり、ナザレへの帰途、イエスが行方不明であることが発覚しました。捜索から3日経ちました。「3」は決定的事実を意味します。両親にとって今や、我が子イエスは全く存在しないということが決定的となったということです。
両親が、神殿の境内で、イエスが学者たちの真ん中に座って議論をしている光景を目撃し、息子を叱りつけた時、イエスはこう答えました。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当り前だということを、知らなかったのですか。」(49節)要するに、「わたしが一体何者かを正しく認識できていたならば、天の父である神の家、神殿にいるのは当然のことでしょう」というのです。

自分たちの手の中にあるはずだと思っていた我が子イエスの思いがけない言動に、両親は戸惑いました。同じく私たちも、気付かない内に主イエス・キリストという方を、いつも自分の手中にある存在だと思い違いしてしまうことがあり得ます。自分に都合のよいイエス像を勝手に造り上げてしまい、「イエス様ならこういう方だ、こういう方であるべきだ」としてしまう。けれども、主イエスは、私たちの思いや都合を超えている方です。

両親には、「イエスの言葉の意味が分か」りませんでした(50節)。しかし、母マリアについてこうも書かれています。「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(51節)。聞き覚えのある言葉ではないでしょうか。キリスト誕生の日、羊飼いたちの訪問を受けたマリアは、「これらの出来事をすべて心に納めて思い巡らしていた」(2章19節)とあります。マリアという女性は、イエスを巡る出来事をいつも心に深く納めようとした人です。今はその意味が分からなくても、心にしっかり刻んで、思い巡らしたのです。やがて、秘められたものが開かれ、神の御業が明らかにされるその時を待ち望みながら。この姿勢こそ、信仰者としてのわたしたちの姿勢ではないでしょうか。わたしたちを取り巻く思いがけない出来事、戸惑いを覚える出来事、あるいは望みが絶たれた、と思われる出来事でさえ、その一つ一つを心に納め思い巡らすこと、そうしてそこに生きて働く神の御業は点から線、そして面となり明らかにされていくことでしょう。その時が備えられていることを待ち望みながら生きていくのです。わたしたちが神の愛の手中に生かされていることを知るのです。その意味で、教会暦のアドヴェントは終わりですが、信仰生活とはその全体がアドヴェントなのです。

すべてを心に納めるマリアの姿を思いながら、神様こそいつも、わたしたちをその御心に納め続けていて下さる方なのだと思わされます。私たちが人生の意味を見出せずに立ち止まり、うずくまる時も、そのすべてを覚えて心に納め続けて下さるのです。都合のいい時だけ気まぐれに接する神ではなく、すべての時、神は真実に、真剣にわたしたちのために生きておられます。少年イエスという存在には、独り子を世に与えられるという、わたしたちの思いをはるかに超えた神の愛と赦しの決断が詰まっているのです。

少年イエスは言いました。「わたしが自分の父の家にいるのは当り前だ」(49節)わたしたちはどうでしょう。ナザレに帰っていった少年イエスは、やがて、私たちを真に神の子とするための十字架へと向かう福音宣教の歩みを始めていきました。この方の十字架の死と復活によって、私たちもまた、神を心から親しく「父よ」と呼ぶことのできる「神の子」とされました。そう信じる私たちにとっても、ここで神の御前に捧げる毎日曜の礼拝とは「当たり前のこと」と言えば語弊がありますが、神に愛された子として、真に自然な営みなのだということをおぼえつつ、2018年の礼拝を中心とした生活を共に始めて参りましょう。

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