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今日はイエス・キリストが十字架とその後の復活を予告する場面で「弟子たちを戒めた」ということから始まります。いきなり戒めたと言われていますが、これは何について戒めたのかというと、弟子たちのメシア像についてです。

ペトロをはじめとする弟子たちは、「イエスは、一体どのような方なのか」という問いに対して、「バプテスマのヨハネ」「預言者の代表であるエリヤ」つまり「劇的に世界を変える力強い救い主」というイメージを持っていたのです。イエスはメシアというのはそのようなものではなく、「苦しみを受け、排斥されて殺される」力強く華やかな存在ではなく、それとは正反対にこの世界から受け入れられず、多くの苦しみを受けて最後には殺されてしまう。そんな力ない存在が、真のメシアの姿だと語られたのです。

そのように真のメシア像を示した次に、イエスが弟子たちに語られたのは、「日々、自分の十字架を背負って私に従いなさい。」ということでありました。原文では、この言葉は命令形で語られていますから、イエスは、ただ「伝えた」というのではありません。命令をされたのです。 「あなたが私のことを信じるのなら、私と共に歩むのなら、あなたの十字架を背負って私に従いなさい。」弟子になるなら、この命令に必ず従いなさい、ということをイエスは命じられたのです。

聖書は読めば読むほど著者の伝えたいことが難解な書物です。しかし、今日の箇所では明確に現されています。「私の十字架を負いなさい」それが私たちへのメッセージです。明確なだけにこの言葉を受け止めるのは、私たちにとって難しいのです。理解するのは簡単ですが、この言葉をしっかりと心の中に受け止め、その命令の通りに生きて行くというのは本当に難しいことなのです。

十字架を負うというのはイエスの足跡を辿るということです。自分の命を捨てるような歩み、自己中心的な思いを捨てて、この世界の豊かさや力を遠ざけて、弱い立場にある人たちと共に生きること、自分の心や体を削るようにして、誰かのために何かのために仕えていく生き方、それが十字架を負うという生き方です。

それも、一瞬とか一日ではありません。日々、毎日、そうしなさいと言われているのです。これは私たちにとって非常に厳しい命令です。

私たちも、自分が可愛いのです。苦しむことは嫌だからです。守りたいものもありますし、できれば今より少しでも豊かに生きて行きたいという願いを持っています。傷つきたくないですし、痛い思いもしたくない。自分のために十字架を負うとしても厳しい、そんな道のりを、「自分を捨てて」歩め、というのです。それが、十字架を負うということの本質なのです。

27節でイエスは、このように言っています「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

「十字架を負う」というのは、私たちには本当に困難なことなのです。けれども、もしその歩みを生きたのならば、私たちが本当に自分の十字架を背負って、誰もが自分を捨てて誰かのために生きられたのであれば、私たちは、神の国を見ることができるというのです。イエスは、誰もが十字架を負いながら他者のために生きたのであれば、私たちの前に神の国が現れるというのです。

イエスは、私たちの弱さや貧しさのかわりに、十字架についてくださいました。私たちに命じたことをその通りに生きて下さった。私たちの痛みも、辛さも、悲しみも、切なさも、孤独も、全てを私たちの変わりに担ってくださいました。それが、十字架を負うという意味であり、私たちに与えられた本当の恵み、希望、喜びなのです。私たちもそう生きられるのであれば、全てのことを共に担いながら、真実の愛を歩めるのであれば、そこに、神の国が実現する。聖書は私たちにそう告げているのです。

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