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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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日曜日の朝、婦人たちはイエスの亡骸に香油を塗るために早朝から出かけて行くと、墓の中には白い衣を着た若者が座っていました。白色は神の遣いであることを表す色です。天使は婦人たちに「あの方は、あなた方より先にガリラヤに行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる」と告げ知らせます。けれど婦人たちは墓を出て、逃げ去ってしまいます。「なぜなら恐ろしかったからである」とマルコ福音書は復活の出来事を告げ知らせるのであります。

マルコ福音書は4つの福音書のなかで一番古いものですが、復活についてわずか8節しか記されていません。8節以下は[ ]で括られており、この[ ]は元々この文章はなかったけれども、後の時代に聖書に付け足されたものであるという意味を持ちます。つまりイエス・キリストの公生涯についてずっと書いてきたマルコ福音書は女性の弟子たちが感じた「恐ろしかったからである」という言葉で終わっていたということです。不思議な終わり方ですが、完結な表現だからこそ際立ち、強調されることがあります。それは女性の弟子たちが逃げ去る前に、天使が告げた言葉です。復活のイエス・キリストは「わたしたちより先立ってガリラヤへ行かれる」ということです。

ガリラヤとはイエス・キリストが宣教の旅をしたところです。当時のパレスチナの北に位置していました。何度も他国に征服され、取り戻すことを繰り返すうちに、異邦人からの影響を強く受けた混血の地域でもありました。それはこの時代には穢れた土地であることを意味しています。穢れという概念は、最も神の救いから遠いと考えられていました。ガリラヤは「貧しさ」の象徴です。人間の「悲しみ」の象徴です。「弱さ」の象徴でもあります。自分の力ではどうすることも出来ない悲しみを抱えた人々が住んでいた土地です。そして私たちの心に、私たち自身の心のなかにも、悲しみや弱さの象徴である「ガリラヤ」は存在しているのです。

私たちは痛みを携えて教会に集っています。大切な人と悲しい別れを経験した人。他人から軽んじられ、侮辱され、深く傷ついたことのある人。病気を抱えておられる方やその方を支えている人。「神様どうしてですか…!!」と心に涙をいっぱい溜めておられる方がおられます。

聖書は復活のイエス・キリストに会える場所は「ガリラヤ」であると伝えています。私たちが一番神様の救いから遠い、そう感じる時にこそ、主は共におられるというのです。私たちがイエス・キリストに出会うのは順風満帆で何不自由ない時ではありません。私たちがイエス・キリストに出会えるのは、最も悲しい経験を歩まねばならない時であり、最も弱さや、力なさを経験した時です。

マルコ福音書の始めには「神の子イエス・キリストの福音の始め」という言葉が書かれています。悲しい出来事や辛い経験のなかで、生きて働きかけて下さっている神の存在に気がつく時、イエス・キリストの恵みの良い知らせが始まるのです。それはイエス・キリストの生涯に立ち返っていくことです。ガリラヤで小さくされた人々にみ言葉を語り、人々を癒やし、弟子たちを愛しぬかれた。痛むものと共にあり、悲しむものと共にあったイエス・キリストが、私たちに先立ってガリラヤに行かれているのです。

人生には様々なことが起こります。悲しい別れもあります。理不尽なことも起こります。けれども「生きていくことは素晴らしい」ことです。なぜなら、今も生きて働きかけて下さっている神が、悲しみを悲しみのままにはしておかれないからです。悲しみの出来事からイエス・キリストと共に歩いていく。神が与えて下さっている、恵みの良い知らせに出会い、神の出来事に出会い、生きていく力を与えられていくのです。私たちの悲しみを共に担い、先立ってそれを受け止めてくださるイエス・キリストがおられます。

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