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今日は、イエス・キリストが宣教の始めに、湖のほとりで4人の弟子を招く物語です。イエス・キリストが、4人に声をかけて自分の弟子として招くと、それぞれがその場に自らの仕事や家族を置いたまま、イエス・キリストの招きに即座に応じて行ったことが記されています。

非常にあっさりとした文章ですが、繰り返し何度も聖書を読んでいくと、ゼベダイ家は自前の船を持ち、雇い人を何人も抱えていたことがわかります。日本でいう漁師の網元のような立場であり、比較的裕福だったのです。対してペトロの兄弟は、船も雇い人も持たず、兄弟だけで働いていたこと。二人の兄弟が家計を支えていたこと。恐らく厳しい生活を送っていた貧しい漁師だったということがわかるのです。ゼベダイ家の二人は裕福ですから、イエス・キリストに従わなければ安心して豊かな生活が送れたはずです。ペトロ兄弟は、二人が家計を支えていたのです。家族の生活が成り立たなくなるかもしれません。それぞれの兄弟が即座に、非常に重たい決断を下してイエス・キリストに従って行ったのです。だから、「この4人の弟子は、イエス・キリストに従うものとして、心の強さと従順さを兼ね備えた理想的な弟子だ。」伝統的にこの箇所は、そのような理解がされてきました。

しかし、イエス・キリストに招かれて、弟子になるという時、私たちが、イエス・キリストに従って生きて行こう、そう思った時。私たちにも「心を強く持ち、いつも従順でいる」ということが理想とされるのでしょうか。

確かに、信仰を持ちながら生きるということは、時に厳しい選択を私たちに迫るときがあります。御言葉はこの世の価値観とは違ったことを私たちに語りかけるからです。私たちも、この世とは違う決断を求められる時があるのです。しかし、その厳しさに耐えうる「強さを持つ」ということが弟子の理想なのでしょうか。私たちが様々なときに抱く、思い煩いや、逡巡や、ためらいや迷いは相応しくないと言われているのでしょうか。

そうではないと思うのです。確かに、今日の箇所だけを見れば、弟子たちは理想的で強い信仰を持った人物のように見えます。しかし、福音書全体を通してみれば、ゼベダイの子たちは、イエス・キリストの思いを全く理解できない無理解な弟子の代表として書かれていますし、ペトロは一番弟子でありながら、イエス・キリストが今まさに死刑の判決を受けようという最も助けが必要な時、「知らない。私は関係ない。」そう言って見捨てて逃げて行ってしまうのです。弟子たちは私たちと同じように、弱さを抱えた不完全な存在なのです。

今日の箇所は、弟子たちの強さや決断を中心としたものではないのです。そうではなく、この4人の弟子たちが、自分を全く理解せず自分のピンチを見捨てて逃げていく。そう知りながら彼らを自らの弟子として招いてく、イエス・キリストの「招き」こそに焦点を当てた物語なのです。

私たちは、力ない存在です。繰り返しの日常を生きていくだけで精一杯なのです。ひとたび受け入れがたい出来事に見舞われると、右往左往しながら生きているのです。傷だらけになって、弱り果て、倒れても一人では立ち上がる力が湧いてこない。強さからはほど遠い、弱さを持った存在です。

しかし、その私たちをイエス・キリストは、招いてくださるのです。「弱くても良い。傷ついたままで良い。立ち上がることができなくともよい。何も成し得ないあなたで良い。そのままのあなたで、私について来なさい。」そうイエス・キリストは招いてくださっているのです。そこに私たちの希望があるのです。

「私について来なさい。私と共に歩んで行こう。そんなあなたも、人間を取る漁師にしよう。」いつ、どの様なときも、たとえどんな私たちであっても、主イエス・キリストはそのように、招き続けてくださるのです。その招きに身を委ねて、力と勇気をいただいて歩んで行きましょう。

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