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実は捜されていました
徴税人は、ある程度自分の裁量で課税することが許されていました。そこで支配者であるローマ帝国に納める税金の他、不正に徴収したお金で私腹を肥やす者もおり、当然、同胞ユダヤ人からは、「ローマの手先、イスラエルの恥」などと軽蔑されていたことは、容易に察しがつきます。「なにがザアカイだ」と(ザアカイ=「正しい」「純粋」という意味)。
何不自由することのない生活の中で、しかし、生きる喜びに飢え渇いていたある日、ザアカイは、イエス・キリストが来られた知らせを耳にし通りに出ました。徴税人や罪人と一緒に食事をしたという噂のイエスがどんな人物か。自分と全く無関係ではないような気がしたのではないでしょうか。背が低かったザアカイは、先回りをしてイエス一行が通る道沿いに立ついちじく桑の木によじ登り、群衆の渦にイエスの姿を捜しました。ところが、そんな彼自身が主イエスに捜されていたのでした。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
突然そう呼び掛けられた彼の心理状態を聖書は細々分析しません。ただ一つ、「喜んでイエスを迎えた」と記すのみ。主イエスが自分という存在に、思いを注ぎ真実に向き合って下さっている、この人のまなざしの奥で自分は偽りなく、理屈抜きで受け入れられ大切にされている、そう思うことのできた喜びです。この喜びを知った日、ザアカイは、自分がどんなに命に渇きを覚えていたのか気付いたでしょう。目先の喜び楽しみなどすぐに蒸発しては消えてしまうような空しさを覚え、命を捜していたザアカイ。その心は、この日、潤い、温まり、癒され、開かれました。

わたしにつまずかない人は幸いである
さて、町の人々は、主イエスがザアカイを選んだことにすっかり興ざめしました。なぜ、イエスは搾取され貧しさに喘ぐ人や病苦に絶望している人ではなく、よりによって弱者から搾取する敵・ザアカイなのだ、と。人々の理解を越える出来事でした。主イエスは、エリコの人々に心に自分と敵とを隔てる壁がはっきり存在することを明らかにし、またその壁を越えていく行動は、彼らにつまずきをもたらしました。
主イエスにつまずいたのは、律法学者やファリサイ派の人々だけではありません。心の中に敵と壁を作り出す世にあって、主イエスの歩む道はすべての者につまずきなのです。わたしたちは皆、その神の愛の分け隔ての無さ、その自由さを、心のどこかで本当には認められずにいるところがある。そうしてなんとしてもイエスの自由な歩みを食い止めようとする、その結果が十字架なのです。

十字架上のイエス、
いちじく桑上のザアカイ
主イエスは、そこからエルサレムへと向かわれました。しばらく経ったある日、ザアカイは主イエスが十字架の上にかけられ、民衆から罪人として嘲けられながら死なれたこと、しかし三日目に復活されたという知らせが届けられました。「えっ!?そんなこと聖書のどこにも書いていませんよ」と思われた方、あなたに告げられている知らせにほかなりません。あなた自身が主に見つけ出されたザアカイです。主は、十字架に死なれ、復活をして今日生きておられる、その知らせが今皆さんに届けられています。
ザアカイは、あの日、エリコのいちじくの木の上で、人々から嘲られていた背の低い自分の姿と、十字架上の主イエスの姿が重なったことでしょう。
そして、十字架の主イエスと共に古い自分も死に、今や、分け隔てなくどこまでも低みに立って生きておられる復活の主に、呼ばれ、招かれている自分であることを知ったでしょう。主イエスと共に過ごしたのは一晩だけだったとしても、ザアカイの心にはいつまでも主イエスの命と愛が宿りました。
「今日、救いがこの家を訪れた。」ザアカイが耳にしたこの喜びは、わたしたち全員が隔てなく耳にしています。主イエス降誕の夜、野宿する羊飼いたちは天使の言葉を聞きました。「恐れるな、わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」この大きな喜びの物語の中に、あなたも確かにいます。「急いで、降りて来なさい。」

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