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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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主イエスは、ろばの子に乗って都エルサレムにやってきました。「シオン娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる。ろばの子にのって」との預言者ゼカリヤの言葉を彷彿とさせます。主イエスはゼカリヤ書を意識して、そうしたのでしょう。民衆にご自分がメシアであることを示しているのです。群衆も子ろばに乗る姿を見て、預言の成就だと沸いたことでしょう。しかし、群衆が期待するメシア像と、十字架を一筋に見つめているイエスのそれとには、大きな隔たりが存在していました。

時を同じくし、何人かのギリシア人が上京していました。彼らが巡礼にやってきたユダヤ教徒であるならば、「ユダヤ人」と記されるはずですが、「ギリシア人」であるということは、彼らが異邦人であったということでしょう。そんな彼らの上京の目的は、イエスにお会いすることでした。しかし、面会を請われた弟子のフィリポは、快諾せずアンデレに相談しました。何を相談したのか、彼らがギリシア人であるということについてではないでしょうか。果たして異邦人に主は会って下さるのか。一緒にイエスに尋ねました。イエスの返答は思いがけないものでした。「人の子が栄光を受ける時が来た」。つまり「十字架の時が来た」という宣言です。主イエスを求めてやってきた異邦人たちの訪問が、イエスに時を告げたのです。イエスの十字架の死は、ユダヤ人のためだけでなく、ギリシア人、もっと言えば彼らに代表されたすべての異邦人のための死であるということです。

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ。」主はご自分の死が、ユダヤ人、ギリシア人にも、すべての民に命を実らせるものとなるというのです。キリストは一粒の命の種としてこの地に蒔かれるためにこそ来た、まさにその時がきたのだということを、ご自身の内に確認するのです(27節参照)。

主イエスは、あのラザロを甦らせた時、涙を流された(11章35節)とあります。その姿を見た人々は心を打たれて言いました。「見よ、どんなにラザロを愛しておられたことか」。神は、私たちへの愛の故に、涙を流して下さる神です。詩編126編に「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」とあります。「涙と共に種を蒔き、喜びの歌と共に刈り入れる人」とは誰か。それはまずもって神ご自身のことです。神は、独り子の命という一粒の種を、涙と共にこの地に蒔いて下さいました。その涙の一粒から生まれた、豊かな喜ばしい実りこそ、皆さん一人一人です。そして刈り取られた実りは、蓄えられて終わりではなく、また一粒として蒔かれていくのです。そこに天の喜び、天の豊かさがあります。

26節「わたしに仕えようとするものは、わたしに従え。それすれば、私のいるところに、わたしに仕える者もいることになる。」主イエスは「わたしはあなたと共にいる」とは言っていません。主が共にいて下さることは、私たちの確かな慰めです。しかし私たちは、時としてこのことを自分に便利良く用いてしまいやすいものです。また主が共にいて下さることが、驚くべき恵みではなく、もはや自明のことになってしまうのです。しかし、ここでは逆です。「あなたのいるところにわたしも」ではなく、「わたしのいるところに、私に仕える者もいる」と言われるのです。つまり、「わたしのいるところに、あなたはちゃんと立っているか?」という問い、招きです。弟子たちはこの後、捕えられた主イエスのもとから逃げ出しました。主のおられるところに立つことができなかったのです。しかし、そんな彼らも、やがて使徒として宣教の業に仕えていきます。そう、異邦人のもとへも。「主は彼らのただ中にも確かに立って下さっている、わたしもそこに立とう」、そう信じて歩み出した彼らもまた一粒の麦として蒔かれていったのです。主イエスに会うためにやってきたギリシア人がいました。その願いがかなったかどうかは聖書を読む限り不明です。しかし主イエスはやがて、弟子たちの宣教を通して、彼ら異邦人にも深く出会って下さったのです。

「わたしのいるところに、あなたはいるか」と主は問われます。どこまでも謙り、一人一人の命に仕え抜いたその愛を私たちに示しつつ、「あなたもここに立つものとなれ」と招いておられます。「蒔く」という字には「時」が隠れています。わたしたちが刈り取られた一粒の麦として、蒔かれ、主に応え用いられていく時はいつでしょうか。その時こそ十字架を背負って下さった主イエスの栄光の時なのです。

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