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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■改ざん事件
ボロボロになって帰って来た「放蕩息子」を父親は迎え入れました。一方、腹を立てた兄のことも父は愛し、扉を開いていました。限りない愛の神によって迎え入れられた者として、わたしたちはどう応えて生きていけば良いのか、「不正な管理人のたとえ」は道を示しています。
実に往生際の悪い不正な管理人です。主人の財産を私的に流用したことがばれた時、あの放蕩息子のように全面的に過ちを認めて謝罪するのではなく、大胆にも更なる不正を重ねたのです。主人から会計報告を要求された管理人は迅速に行動します。主人に借りのある人たちを集めて、その借用書を改ざんしたのです。負債を軽減することで恩を売り、自分が解雇された時には面倒見てもらおうと周到な作戦です。
ところが、主人は、この管理人の抜け目なさを褒めたのです。全く意表を突く展開に読者は戸惑いを覚えます。更に、主イエスは言われるのです。「言っておくが、不正にまみれた富で友達を造りなさい。」

■「不正な管理人」とはわたしのこと
わたしたちが持っている知恵も健康も富も時間も、すべては神様がその源です。わたしたちは、「これだけは絶対わたしのもの!」と言えるものを何ら持っていません。如何なる理由にしても、すべては神様から頂いた恵みです。
そうして頂いた恵み(財産)を、私たちは自分の必要に応じて用いて生きています。進学、就職、入院、老後などのため、抜け目なきよう、失敗なきよう富を用いるのです。しかし、ふと立ち止まってみて、果たして、わたしたちは神の財産を、適切に用いていると言えるでしょうか。自分のためにはそうして周到に富を用いながら、そこですっかり神様をわすれて、すべてはまるで自分のものであるかのように思って生きる時、「不正な管理人」になっているのです。

■過ちを重ねながら
しかし、それは人間にとって避けられないジレンマです。現実問題として、自分の生きるために富を用いなければならないのですから。わたしを生きていこうとする以上、どうしても不正な管理人(罪ある人間)として神様に背いて生きざるを得ない面を持っているのです。
そこで、わたしだけは正当な管理人ですと言える人はいません。根本的な間違いがあるのです。そして、その事実を認める時、主イエスの「不正にまみれた富で友を作りなさい」という言葉の意味が見えてきます。要するに、人間というものは神様に対して、不正に不正を重ねるような、罪に罪を重ねるような生き方をしてしまうものなのです。そうであるならば、その過ちの多い人生において、あなたは友のために富を用いよ、と。
主人は不正な管理人の抜け目なさを褒めました。実に神様とはそういう方なのです。神様は、ご自身に対して過ちを重ねるようなわたしたちの生き方について、「お前は失格だ」と全否定して追い出す方ではありません。むしろ、そのように過ちを犯しながら生きざるを得ないわたしたちが、自分に託されている富を、隣人のために用いること、自分に負い目のあるものを赦すこと、そのことを心から褒めて喜んで下さるのです。
北九州でホームレス支援をしておられる奥田知志牧師が講演でよく話されるエピソードがあります。自分たちの働きは、「罪人の運動」なのだとおっしゃいます。5名定員の自立支援施設に応募が殺到し、どうしても絞り込めない中で、そのことを痛感されたのです。誇らしい愛の業ではなくて、罪人の運動だと。厳寒の中、炊き出しのボランティアをしたかと思えば、自分は温かい布団で寝るんだ、とも。そんな限界や過ちを抱えながら、でもそこで友になろうとするのです。自分には利己的なところがある、つじつまが合わないこともある。それを人から指摘されることがある。いろんなジレンマの中に立たされるのです。それはまさに「不正な管理人」なのです。そして、主はそれを褒めて喜ぶのです。

■不正な管理人イエス
「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。」ごく小さな事、それは、いと小さき者の一人を軽んじない生き方と言えるでしょう。
主イエスは、当時の律法という常識に照らしてみれば、不正な罪人と見なされました。人々が自分を正しさで塗り固める中で、たとえ律法を犯してでも小さくされた一人に仕えて友になろうとされました。律法を隅から隅まで 「小忠実(こまめ)」に守れば良いというのではなくて、小さくされた一人の友になる、そこに主イエスという方の真の「こまめ」さがあります。
主イエスは、罪人として裁かれ、嘲笑われながら十字架の死に至りました。 しかし、十字架は一人を愛し抜き、友となったことの結果であり証しです。実にわたしたちこそ、そのようにして主イエスによって友とされた一人ひとりです。その時、わたしたちは知るのです。神様に対するわたしたちには抱えきれないほどの負債は半分どころか、すべて赦されたということを。主はそうして、抜け目なく、小忠実に一人ひとりの友となって宿り、今日生きておられます。

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