札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光

日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

札幌北光教会/トップお問い合わせ
札幌北光教会/トップキリストの招き平和宣言過去の信仰告白オルガン結婚式・葬儀アクセスマップfacebook
教会案内礼拝案内集会案内牧師紹介/説教納骨堂/クリプト北光貸し会議室

>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >マリアの賛歌


妊娠という出来事には、「既に」に「未だ」が共在しています。未だ生まれてはいないけれど、既に事実としてそこにあるのです。マリアは、胎児の動きが体に響くにつれて、神の約束の言葉が、既に自分の中で息づいていることを体感したことでしょう。マリアに起きたこの出来事は、わたしたち自身の出来事でもあります。私たち内にも、神の愛の約束が鼓動しています。胎児の心音は聴こえなくても、福音という「音」が私たちの内で鼓動しています。それは既に今ある事実であり、しかし未だ成し遂げられてはいない事実です。その音は、足音と言えるかもしれません。すべてをその愛をもって成し遂げるために来られる主の足音です。

受胎告知の後、マリアは山里の親類エリサベトを訪ねました。マリアがそこで見たのは、老齢のエリサベトが男の子を身ごもって6か月となっている様でした。マリアの挨拶を受けた時、エリサベトの胎の子が喜び踊りました。マリアもおそるおそる彼女のお腹に手を当てながら、いま自分にも同じ事が起きているということ、神様の約束の言葉が本当であることを確信したことでしょう。この山里で二人は互いの不安や希望を分かち合ったことでしょう。その時、マリアの心は、歌となったのでした。一人では決して生まれなかったであろう歌です。一人ではとても受け止めきれなかった不安は、エリサベトとの交わりを経た時に歌と変わりました。

マリアとエリサベトの交わりは、教会の姿を表しているように思います。二人はただ親戚として出会ったのでもなく、ただ悩み相談をしたのでもありません。二人は互いに神様の約束を宿した者同士として出会ったのです。わたしたちも、互いに血縁でつながっていなくても、主からの思いがけない愛の約束を内に宿した者同士として教会に集められている、引き合わせられています。互いに挨拶を交わし、今日この日、確かに主の愛が生きて鼓動していることを確かめ、讃美するのです。「わたしもこの人と同じ主の愛を内に宿しているのだ」、「この人が受けた恵みは、わたしもまた受けている恵み」と気付かされ、力づけられる時、歌は生まれます。自分一人では歌とならない思いも、ここに共に集められ、不安も喜びも共感し、福「音」を聴く時、歌となるのです。

「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。主は、身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」
「はしため」という語をどう翻訳し直しそうとも(ルターは「無に等しい」と訳しました)、マリアは、自分が本当に貧しく小さいということを、誰かに強いられてではなく、自らの口で語っていることに変わりはありません。伝道者パウロは、「キリスト」という宝を納めている自分は土の器であると言いました(Uコリント4:7)。ですが、「はしため」も「土の器」も、自己卑下や謙遜ではありません。「自分が頂いている主の愛の偉大さを思えば思う程、それと比べるならば自分というものは取るに足らないというほかない」ということなのです。マリアが強調しているのは、自分の小ささではなく、主の愛の大きさです。自分に注がれている主の愛の大きさを思う時、わたしたちは皆、主の愛を納める「飼い葉桶」とされるのです。

権力が跋扈し、野心がはびこり、力による抑圧や排除が世をかき乱す中、しかし、そこで成し遂げられるのは、ただ神の御業だけなのだ。すべてを覆う主の愛という本当に畏れるべきものを知った時、マリアは少女らしからず、力強くそして自由に歌います。これは、わたしたちも心から歌うことができるものです。マリアだけの賛歌ではなく、主の愛を内に宿した「わたしたちの賛歌」にほかなりません。
わたしたちは「既にと未だ」を宿しています。イエス・キリスト、この方に示された愛は既に私たちの内に鼓動し、しかし未だその御業は働きの真只中です。やがて、この愛がすべてを成し遂げられるその日を、畏れと希望をもって、わたしたちは待ち望み続けるのです。

前のページに戻る

お問い合わせ北光幼稚園

個人情報保護方針について