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二人のマリアは、何をするために墓を見に行ったのでしょうか。それはきっとイエスの死を悼み悲しむためです。墓の前で、涙涸れるまで泣くためです。それは、彼女たちにとって不可欠なことだったのです。人は、愛する者の死を悼み、涙することによって、死の現実を受け止め、徐々に心が整理され、次の一歩を踏み出していくことができるのですから。

東日本大震災から6年が経過し、なお2500名以上の方が行方不明とのことです。なお、安否を確かめ続ける人々がおられます。たとえ亡くなっていたとしても、手厚く葬ってやりたいと願う人々がいます。葬りは、新たに歩み出していくために不可欠なのです。そういう意味では、二人のマリアにとって、イエスの遺体は墓の中にあるべきだったのです。しかし、あるべき遺体がそこになかったのです。これでは悲嘆しようにもできず途方に暮れる思いだったでしょう。

主は確かに死なれ、葬られたという一部始終を彼女たちは見つめてきたのです。主の天使から、主イエスの復活が告げられ、遺体がそこになかったと確かめた時、「一体何事が起きているのか」、状況の理解・整理ができず心騒がせたマリアたちを想像します。
その時、天使は言うのです。「急いで、行って弟子たちに告げなさい。『あの方は死者の中から復活された…』」(7節)と。天使は、彼女たちがこの空の墓に、いつまでも佇んでいることを許しません。「急いで弟子たちのところへ行きなさい」、それは「方向を変えなさい」ということです。ずっと墓に向かい、イエスを悼み、イエスの思い出に浸り、ひたすら涙しようとしていた彼女たちに対し、「あの方を過去の思い出にしてはならない。あの方を死の中に、墓の中に閉じ込めたままにしてはならない」と言うのです。

これは、今日、私たちの生活のただ中に告げられている言葉です。もしも私たちが、生活の中で、「主の不在」に恐れ戸惑い、立ち尽くしてしまう時、それは、主イエスを墓の中に捜し出そうとしたマリアと同じではないでしょうか。私たちはそうして、自分自身を、大きな墓の中に置いてしまっているのではないでしょうか。死に包まれ、その恐れ・悲しみ・空しさに包まれた墓の中で主に出会うことはできません。そこではただ「あの方は、ここにはおられない」(6節)との知らせが、喜びの知らせとしてではなく、空しい知らせとしてこだまするばかりでしょう。

私たちの人生は、死に包摂された大きな墓でしょうか。死に堅く閉ざされた制約の中で、翻弄され、執着し、思い煩い、右往左往するばかりでしょうか。そこで「諦める」ことこそが救いなのでしょうか。天使は、ここを出て行くよう強く促しました。墓の中で、死の支配の中で、主に出会うことはできないからです。墓の外へ、死の支配の外へ、踏み出していく必要があるのです。

神様が本当に求めておられることは、主イエスお一人が復活なさることではなく、その出来事を通して、私たち自身が死から解き放たれたところで、本当に私たちを包んでいる主の愛に出会っていくということです。

恐れも喜びも入り乱れているような複雑な表情を浮かべる彼女たち(8節)。しかし、墓から踏み出したその一歩が、まさしく彼女たちの復活の始まりでした。走り出すと、行く手に「おはよう」と呼び掛ける主イエスが立っていました。心から彼女たちを慈しむまなざしがそこにはありました。それは、全く思いがけない出来事、思いがけない言葉です。墓の中に、死の中にイエスを見出そうとしていた彼女たちが、今はむしろ主イエスによって見出され、呼びかけられているのです。大いなる逆転がここに生じています。「私が主を探し出すのではなく、ただ主が私を見出して下さっている」、「ただこのまなざしに守られてこそ自分たちは生きている」、「このまなざしは死をも越えてわたしを捉えてくださっている」、その希望が「おはよう」の一言には溢れています。

「おはよう」、この日常的な挨拶は、つまり、日々私たちの人生の行く手に、私たちを見出して下さっている復活の主がおられるということです。なんの変哲もない道端が、涙しながら歩いてきたその道が、復活の主に見出されている道、主に呼び掛けられている日なのです。そして、この言葉が、死をも越えた永遠のものであることを信じ、私たちは踏み出すのです。

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