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ラザロの重篤の病の知らせを受け、しかし主イエスは、それからなお丸二日もその場を動きませんでした。それは、「死で終わるものではない」ということを示すためでした。私たちが見出すべき「奇跡」とは、ただ驚くべき治癒や甦生という現象ではありません。この後、甦ったラザロも、結局は再び死んだ存在なのです。人は皆、死ぬべき存在であるという事実を忘れて、生かそれとも死か、という事柄の狭間で一喜一憂を繰り返し続けることを越えて、生も死もその一切を愛によって支配される神に出会わされていくこと、そこに「奇跡」はあります。

丸二日が経った時、ラザロは既に死んでいました。悲嘆と失望の闇が姉妹を覆っていました。あるいはまた、ベタニア村へと命の危険を冒してまで向かおうとする主イエスに従っていく弟子たちの心は、恐れと不安の闇で覆われていました。暗闇に包まれ、躓きを覚えるまさにその時、主イエスは動き始められるのです。皆が、「万事休す」だと思っている中でこそ、主イエスは踏みだされるのです。人間にとっての「時、既に遅し」は、むしろ、主における始まりなのだということがここから示されます。

主イエスを前にして、マルタは言わずにおれませんでした。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)。マルタの無念、それは兄弟ラザロが死んでしまったことのみならず、ここに主イエスがいて下さらなかった、ということだったでしょう。「たとえ死が避けられないとしても、主がここにいて下さるだけで、大きな慰めであったはずなのに」。「なぜここにいて下さらなかったですか」「なぜ、お見捨てになったのですか?」これは、私たちもまた時に抱く苦悩です。そして、これは主イエスご自身が十字架上で叫ばれたことでありました。その嘆きの深さを、実は主ご自身が最も深く知って下さっているのです。

さてしかし、ここでマルタが嘆き訴えているのは、主イエスその方に対してでした。マルタは、主の不在を嘆きながら、いま主がここにおられるという事実を確かめさせられています。主は、最後まで来なかったのではなく、確かにここに来て下さっている。そしてその時は、死の悲嘆の真只中にある時でした。それは、主の時宜に適う時(コヘレトの言葉3:11)なのです。いいえ、それ以前に、私たちは一つの事実を忘れるわけにはいきません。すなわち、「神は人となってこの世にやってきて下さったではないか」ということを。主は、ラザロの死後、遅きに失して来られたのではなく、もはや、いかなる日々も、「主は私たちの只中に来て下さった」と言える日々なのです。

主イエスは、マルタに告げます。「わたしは復活であり、命である」(24節)果たして、「わたしの命」というものは、何処にあるのでしょうか。わたしをわたし足らしめるものとは何でしょうか。神はアダムに尋ねました。「あなたはどこにいるのか」。あなたの命の所在はどこ?それは、ただ神の愛であるという他にはありません。神の愛抜きに存在する命はないからです。「わたしの命」、それは神に愛されているという事実そのものです。

アダムは、恐れと恥とで茂みに隠れていました。しかし、命は本来、私たちが隠したり、どうにかできる私たちのものではありません。「わたしのものだ」と思うが故に、人はそれが失われることを恐れ、嘆きます。主イエスは言うのです。「わたしは復活であり、命である」。それは、「ここにあなたの命があるのだ」ということです。イエス・キリストは、世に来られた神ご自身、神の愛そのものです。たとえ私たちが、いかに罪と汚れ、恥と破れ、恐れと悩みに満ち、茂みに隠れようとしていても、その私を赦し、見出して下さっている神の愛そのものです。ここに、この方に、「わたしの命」はあります。それは、死も抑え込むことのできない永遠の命です。

エルサレムに程近いベタニア村へ向かうことは、命を狙う者に捕えられる危険がありました。しかし、ラザロへの愛、マルタ、マリアへの愛が、イエスを十字架への危険へと押し出していったのです。つまり、一人を愛するために、命を捨てる決意がありました。それはとりもなおさず、主が、私たちへの愛ゆえに、命を捨てることになってでも、世に来て下さった方なのだということを示しています。

今日、私たちの人生全体は、主が来て下さった「ベタニア」です。「ベタニア」は「貧しい者の家」「悩む者の家」という意味です。一説には、そこは隔離された村でした。エルサレムの脇にある、エルサレムから追い出された人々の生きる貧しく、悩み深い村。しかし、そこは主が命を掛け、限りなく愛された、永遠の命に溢れる村です。ここにこそ新しい天と地は、始まっているのです(説教後、讃美歌21-580番)。

「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(黙示録21章4節)。

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