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「疑い深い」とは「人一倍真面目」とも言い換えることができるかもしれません。疑い深いトマス、彼はいい加減な気持ちで主イエスの復活を「信じます」とは言えないのです。復活が本当ならば、それほど喜ばしいことはないのですが、それだからこそ彼は「復活」ということを真面目に悩むのです。信じたいけれど信じられない、喜びたいけど喜べない、そんな苦しみに囚われているのです。トマスには「ディディモ」(双子)というニックネームがありました。彼にはそっくりな兄弟がいたのでしょう。聖書には決して登場しない双子の兄弟、それはきっと皆さん自身のことなのです。信じたくても信じられない、「信頼します、委ねます」と口では言いながら、実際はどんなに自己にしがみつき続けていることか。そんな私の双子の姿がここに描かれています。

20章31節に、ヨハネ福音書の執筆目的が明かされています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため(後略)である」。私たちがただ一度のこの人生を「信じない者」としてではなく、「信じる者」ものとしてこそ生きるために、この福音書は書かれました。

ある人が言いました。「私たちの最大の問題は、私たちがこれまで何をしてきたのか、何をしてこなかったかということでもなければ、何を感じ、何を感じなかったかということでもなく、何をすべきか、何をすべきでないかということでもない。最大の問題は、ただ単純に、私たちが愛されてきた、その愛がいかにすばらしいものであるか、そのことを思い起こすことがなかったということだ。」トマスは人生最大の問題解決に直面しています。

「あなたの指を当ててみなさい」と呼び掛けられた時、一体トマスがどんな顔・仕草で主イエスの傷跡に触れたのか(あるいは触れなかったのか)、そこを聖書は何も明らかにしません。それは問題ではないからです。ただ信じるものとなったか否か、その一点にぎゅっと注目するのです。注目のトマスの答え、それは「わたしの主、わたしの神よ」という一言でした。「わたしはあなたを信じます!」という格好の良い誓約の類ではなく、ぽろりとこぼれ落ちる「わたしの主、わたしの神よ」です。続く21章で、主イエスがペトロに向かって「わたしを愛しているか」と3度尋ねた時、ペトロは「はい、愛しています」とは答えられず、その代わり「主よ、あなたが何もかもご存知です」と答えました。この時トマスとペトロも双子の様です。二人共、「あなたを信じます」とか「あなたを愛しています」とは言いません。そのような言葉はたとえ100回言ったとしても、いかに脆いものでしょうか。言うほどに空虚に、そして悲しくなっていきませんか。「わたしの主、わたしの神よ」、この一言の告白にこそ、トマスの信仰、また彼の平安が見出されます。ただこの一言によってこそ、トマスはここから新しい人として歩み出して行けたのです。これはディディモ(双子)である皆さんの物語です。信じること、愛することにこれからも何度も失敗し続ける私たちです。それでもその失敗の只中でなおも「わたしの主、わたしの神よ」そう呼びかけることが赦されている、招かれているのです。そう呼びかけることのできる方が立ち続けていて下さるのです。

今日、復活のキリストは、あらゆる扉を越えて、私たちの命の只中で「あなたに平安があるように」と呼び掛けて下さいます。人生の主として導き、まことの神として一切を愛の内に支配していて下さいます。そんな主であり神であるキリストの両手には、今日も十字架の傷跡が残っています。その傷跡は私たち背きの証しです。主を見捨て、主を忘れ、主に背いたが故に負われた傷です。主イエスは、私たちの罪を御手に深く刻みつつ、その御手をもって私たちを限りない愛と赦しで覆っています。この御手が新たに歩み出す札幌北光教会をいつも捉えています。 「信じないものではなく、信じるものになりなさい」(27節)

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