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主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受ける際に言われました。
「今は止めないでほしい」。神が天高く神であることを捨てて、私たちと同じ人間となられたこと、キリストが一人の罪人として洗礼を受けたこと、この出来事は誰の判断によっても引き止めることのできない神の判断、決断でありました。

洗礼を受けた主イエスが、一人の人間として聴いた天からの言葉、「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」(マタイ3:17)を、ご自分と同じ人間に伝え、その事実を共に生きていくために、主は泥んこになって下さったのでした。

42節には、群衆が主イエスを離すまいと、しきりに引き留めるという場面が描かれています。「もっと教えを聴かせてくれ」「もっと病を癒してくれ」と主を離さなかったのです。悪くいえば、主イエスを自分たちだけのものにしようとした。しかし、主は言いました。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」(43節)。ここでもやはり、「止めないでほしい」と言われたのです。

主イエスは、至る町や村の人々に、安息と解放を告げ知らせるヨベルの年の角笛のごとく、福音を響かせて、人々を神の愛という故郷へと解き放つために遣わされたのです。

カファルナウムの町で、主イエスの教えを聞いた人々は驚きました。「その言葉には権威があった」(32節)からでした。この際注意したいのは、「権威」と「権力」は違うということです。

人を強制的に、一方的にねじ伏せ、己に従わせるものが権力であるならば、権威とは、本来、両者の間に信頼関係が築かれているのです。思いを伝えるべき相手の本質的存在を尊び、共感し、愛する心に基づいているのです。だからこそ主イエスの言葉は、人を生かす力ある言葉、権威ある言葉だったのです。

日が暮れてから、沢山の病人が主イエスのもとに連れて来られました(40節)。夜明けではなく、日暮れから集まったこと、それは安息日が終わったことを意味しています。安息日が終わり、自由な移動が許されると、沢山の病人が主イエスのもとに押し寄せて来たのです。新共同訳聖書は、さりげなくこう訳しています。「いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が、病人たちをイエスのもとに連れてきた」(40節)。身近なところで病気に苦しんでいる人を抱えている人々のことも意識されている一言だと感じます。この人の病と、自分はどう向き合っていけばよいのかを悩んでいる人、日々の看護、介護のために自分のやりたいことのいくつかを犠牲にし、自分の生活の重荷となってしまっている人、そのような人々が、朝になるのを待ち切れず、安息日が終わるやいなや、やってきたのです。

主イエスは、一人ひとりに手をおいて癒しました。病人だけではなく、病人を抱えている人たちの上にも手を置かれたのではないかと想像します。一人一人に手を置く、それが主イエスの福音の告げ知らせ方です。「朝になると」(42節)との言葉は、主イエスが夜通し、手を置き続けたのだということを想像させます。

朝の光を迎えるまで、夜を徹して、手を置き続けて下さった、それはただ時間軸で捉える話としてだけではなく、人生の深い闇を覚える時その中で、希望の光を見出すその時まで、ずっと手を置いていて下さる方、それがイエス・キリストなのだということです。

「他の町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない」(43節)。その町の一つとは、私たちの生活の座である札幌のことでもあります。この地に生きる一人ひとりに主が手を置いて下さっている、朝になるまでその一つ一つの命に手を置き、担い、背負ってくださっている、この福音を、キリストの体である私たち自身が主の手として証ししていくのです。

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