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先週は教区の教職講座があり、共同牧会の可能性について、考えるときとなりました。どの教会でも課題となるのが、教会を高齢の方が支えている現状です。私たちは真剣に考え、共に祈り、担い合っていかなくてはなりませんが、私がいつも感じることは、教会におられる高齢の方は、「悲壮感がない」ということです。悩みつつも希望を語り、こんな喜びがあった、ということを聞くのです。それは、たとえ高齢であったとしても、自分が神様から生かされている生き生きとした希望を持ち、神様の子として喜んで歩まれているからだと思うのです。そして、何より教会というところが、神の国のモデルであり、そこに皆がとどまっているからだと思うのです。ヨハネが自分の教会の信徒たちに向けて「御子の内にいつもとどまりなさい」と言っていることです。イエス様の内にとどまるということは、神様は独り子イエス・キリストをこの世にお遣わしになって、十字架の上で命を捨てるほどに私たちを愛して下さった。その愛によって、自分を見失っていた私たちが生きる喜びに立ち返ることができ、そこに神の愛が示されている、という信仰を持つことです。
けれども、個人的にも、教会的にも、体が思うようにいかなくなったり、教会の強勢が落ちていったり、失うことが多くなると、いつも喜んでばかりいかないし、悩むこともある。愛と喜びに生きる神の子として歩むことが重荷になるような、キリストの内にとどまり続けることが、一人では難しいときがあります。私の90歳の祖母もキリスト者ではありますが、体に老いを感じるとき、自信がなくなり不安や心配ごとが増して、落ち着いていられなくなる時があるようです。私たちは、得ることは嬉しいですが、失っていくことに悲しみを覚え、信仰者であっても、老いの中に喜びを見出すことが難しい時もあります。社会的な働きも終えて、具体的に自分が用いられていることを感じられず、老人はただ無力な存在なのかというと、決してそうではないことを聖書は語っています。
神様がどれほど私たちを愛して下さるか、考えよとヨハネは言います。それは、私たちが神の子と呼ばれるほどだと言うのです。
人間の目には希望が見えず、神の子とされるほど信仰もないと思えるときもある。けれども、神様は一人ひとりを造り、老いていってもなおその人生をよしとしていのちの日々を加えておられる、その事実があるじゃないかというのです。
今日の旧約聖書では、(イザヤ書46章3、4節)「〜私はあなたたちを造った。私が担い、背負い、救い出す」と神様の御心について告げています。それは、神様が私たちの人生に意味と根拠を与えて下さる方だということです。私たちの人生は何のためにあるのかと言えば、神様に愛され、生かされた神の子として神様の愛の輝きを照り返し、人を愛して神様の存在を証するためにあるのです。私たちは神様の前では罪深い者ですが、キリストの十字架と復活の出来事によって救い出されました。私たちの人生は死んで終わる意味のないものではなくて、死んでもなお永遠に生きている造り主なる神様のもとに帰ることを赦されています。このことが、「救い出す」ということです。

3章3節に「御子にこの望をかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」とあります。つまり、神の子イエス・キリストをまねるということです。道徳的に、倫理的に立派な人間になるということではありません。清くなるというのは、自分の心を愛で満たすことです。だから、「互いに愛し合いなさい」とこの手紙で繰り返し言われるのです。私たちも神の子とされている一人ひとりです。人を愛すること、互いに愛し合うことが、キリストのように清くなるということではないでしょうか。
人の目には、老いること、失うこと、に希望を見出すことが難しく感じます。けれども永遠に生きておられる神様が私たちを神の子とされるほどに愛され、共にいてくださることを約束されています。神様のなさることは人間の思いをはるかに超えて備えてくださっていること、秩序をもって道をつけてくださることに希望をもって、神の子として私たちは、自分たちの教会の、教区内の、日本の、世界の兄弟姉妹と互いに愛し励まし合いながら、神の国のモデルとしての教会にとどまり、祈りを捧げる者でありたいと思います。

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