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ヨハネによる福音書は繰り返し「水」をモチーフとしながら神の愛を示します。水をぶどう酒に変える奇跡に始まり(2章)、ニコデモとの会話(3章)、ヨハネの洗礼(3章)、イエスとサマリアの女との会話(4章)、ベトザタの池での奇跡(5章)。更に弟子の足を洗うイエス(13章)、十字架上のイエスの脇腹から血と水がほとばしる光景(19章)などは最も印象的です。毎週、多くの説教者たちが苦心しながら説教準備に当たり、イエス・キリストを宣べ伝えようと励んでいますが、いかなる言葉の解説も、ひとしずくの水には、かなわないでしょう。

「わたしは人間による証しは受けない」(34節)と言われます。ただ神ご自身の働きに拠らなければ、イエスがキリストであることを伝えることも、そして信じることもできません。「ひたすら」は漢字で「只管」と書きます。説教者に大切なことは、いかに「只(ただ)の管」になれるか、あるいは「無謀」になれるかだと思います。まさにそのところでこそ、神様は豊かに語られ、自由な御業を為して下さるのです。語るものなしには聴くことができませんが、語るものはその時にこそ己を空しくしなければならないという矛盾に直面します。それを乗り越えさせるのは、まさしく神業です。

「あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。」(38節)と厳しく指摘されたのは、日々熱心に聖書を学び、守って生活していたユダヤ人たちです。しかし、主イエスの言われる「み言葉」とは、他でもないご自身のことなのです。

イエス・キリスト、この方こそ人となられた神の言葉です。この人にぞ神の言葉の一切が体現(受肉)されています。アドヴェントとは、そのことを確かめる時です。神の言葉は、単なる空しい口約束、リップサービスに終わらず、苦しみと悩みに満ちたこの世界の只中に生きたイエス・キリストの生涯に示されました。

それでは、わたしたちは、この神のみ言葉イエス・キリストを、いかに「只管」となって、空っぽとなってを迎え入られているでしょうか。「主よ、捧げます」「委ねます」とは言うものの、なお自分を明け渡せないまま、自分の思いを心一杯に満たし、身動きを取れなくなっているのが実態ではないでしょうか。

「ベツレヘムへ行こう」と言って走った羊飼いたちの純朴さ、長旅をして幼子に宝を捧げた東方の学者たちのひたむきさ、マリアとヨセフの神への信頼の深さ、馬小屋に集結したこれらの人々の一途で、只管な姿を思いますと、それとは対照的な自分自身の姿が浮き彫りにされてきます。些細なことでひどく心囚われ、疑い、たじろぎ、ちっとも「只管」になれずにいる自分の姿が見えてきます。しかしそうして自分を惨めに憐れに思いつつ、この礼拝堂へと足を踏み入れる時、気付かされるのです。「ああ、この場所こそ馬小屋なのだ」と。「只管になれない頑迷な私を、神様はこうして毎週招き続けて下さっていたじゃないか」と。実に、神様こそが只管に私たちを招き語り続けて下さっていたのです。

この神の愛を、私たちは心から誉めたたえたいものです。ところが、主イエスは「わたしは、人からの誉れは受けない」(41節)と言われます。私たちの礼拝のあり方を問われている言葉です。私たちの祈りは賛美は真に主を誉めたたえているものとなっているでしょうか。

主イエスが子ロバに乗ってエルサレムへ入られた時、群衆は「ダビデの子にホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように、いと高きところにホサナ」と、羊飼いたちに現れた天の軍勢よろしく賛美を響かせました。しかしそのわずか数日後、その賛美は罵声に変わっていました。そもそも人が神である方に対して捧げる誉れとは、いかほどのものでしょうか。それは真に些細なものに過ぎないものです。神様にとっての誉とは何でしょうか。私たちが主の愛を信じ、心から愛された自分の命、今日一日を感謝し深く生きていくことができるならば、実にその姿こそが、神様にとっての最高の誉、栄光なのです。一人ひとりがそうして人生の苦しみや悩みの中にも、なお自分の命を喜び感謝を見出し、主を見上げて生きる者となるためにこそ、神は主イエスを遣わされたのですから。

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