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「だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、思い悩むな」(31節)。彼らが思い悩むのは、「今日は(明日は)、食べることができるか否か」というほど切実な意味合いでしょう。生きていくこと自体への悩み、嘆きがそこにはあるのです。それと比べるならば、私たちはどうでしょうか。まだ自分の好みを言っていられるのではないでしょうか。
しかし、そんな私たちでも、好き嫌いを言っていられる場合ではなくなり、決定的に事欠き、思い悩むことがあります。それは例えば、生きがいの問題であったり、家族関係の問題であったり、深刻な病の問題であったり。つまり、生活の根底に関わる、命そのものに関わる問題です。自分の命、自分の人生であるにも関わらず、自分の力ではどうしようもない苦悩を抱き、心が真っ暗になってしまうことがあります。時には破滅的にさえなってしまうのです。ふと、わたしたちもまた主イエスに導かれて山を登っている群衆の一人であるということに気付かされます。

主イエスは言われます。「空の鳥を良く見なさい。野の花を見なさい」。主イエスは、人々に空の鳥、野の花を見せるため、わざわざ山に登られたのかもしれません。「空の鳥を見てみなさい。あの鳥たちは種蒔きも収穫もしないのに、天の父はあのように鳥を養ってくださっている。ああやって羽を広げて、自由に、また精一杯に、今日という日を羽ばたいている。野の花がどのように育つか注意してよく見なさい。この花もまた、着飾らず、ありのままでなんと美しいことか。たとえ明日は焼かれてしまうような花でも、神は美しく咲かしてくださる。あなたがたと言えば、なおさらのことなのだ。」
主イエスのこの言葉は、わたしたちの好き嫌いで取捨される言葉ではありません。なぜなら、「神はあなたを愛している」、その事実は決して逃れることも、打ち消すこともできない事実だからです。
いつもこの言葉は私たちの人生の節目において語りかけてくることでしょう。例えば、うな垂れて茫然と地面を見つめるような時、主イエスは「空の鳥を見よ」と、私たちの顔を上げさせます。あるいは空をぼんやり眺めるような時、主イエスは、「野の花を見よ」と、私たちの目を自らの生きる大地に向けさせられます。それは、目の前の悩ましい現実から一瞬、目を逸らさせるためではありません。空の鳥、野の花を指し示し、そうして神に愛された私たち自身を示し、私というものを取り戻させるのです。

そして、もう一つ、主イエスが「よくよく見なさい」と指し示しているものがあると思います。それは、この話を語っておられる主イエスご自身です。イエス・キリストは、罪人として裁かれ、十字架上で絶叫しました。「我が神、我が神、なぜ私を見捨てられたのか」。絶望の極み、神を呪うような叫びです。十字架に掛かってこの世の罪を一人ですべて背負って死んで下さったという方が、なぜ最後に神様を呪うような言葉を口にしたのでしょうか。そして、こんな都合の悪い言葉を、なぜ聖書は明記したのでしょうか。なぜ教会は、これほど悲痛な十字架を立てているのでしょうか。
主イエスの叫びは、この世界の多くの人の叫びと同じです。世人の多くが、生きること、死ぬことに、苦悩し、呻き叫びます。「神様がいるならばどうして私を放っておかれるのですか。なぜ私が苦しまなければならないのですか。なぜ、わたしを見捨てられたのか」と。私たちの人生の最も深い悩みを、主イエスも味わわれました。主イエスは、わたしたちと同じ人間として、貧しき憂い、生くる悩みをその身に味わったのです。
主イエスは死なれました。その時、天の父は、何一つ応えてくれませんでした。しかし、三日目に神は、主イエスを甦らせたのです。ここに応答があります。神様は決して見捨ててなどいない。死んで葬られ、一切が終わってしまったと思う所で、心底空しい気持ちになる所で、神は主イエスを甦らせました。神の愛が一体如何なるものなのか、そこで最も明瞭に現されたのです。だから、十字架とは苦しみのしるしであり、希望のしるしです。わたしたち人間は、生きるために希望が必要な存在なのです。「あなたがたには、なおさらのことではないか」(30節)その「なおさらの愛」が、民衆に語りかけるイエス・キリストご自身に示されているのです。

何を着るか、何を食べ、何を飲むかを追い求めることよりも重要なこと。「神の国と神の義を求めよ」(33節)と言われます。それは、神様がすべてを支配しておられるということ、また神様が愛を尽して、正しくその御心を行われるということです。この大きな愛の「山」に、わたしたちは包まれ、主と共に登っているのです。

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