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律法の専門家が出てくるのですが、この人はみんなから尊敬されていた人で、そして自分でも「自分は偉いのだ」と自覚していた人でした。その彼が、日夜努力をして、そして決定的な答えを見いだすことができなかった難問、それをイエスにぶつけに来たのです。 注意していただきたいのは「イエスに尋ねに来た」のではなくて「イエスを試そう」としていたということです。つまり、イエスがどれほどの人間か、その答えでイエスの価値を計ろうとしてきたわけです。

その質問は「何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるか」ということでした。ここでいう永遠のいのちという不老不死ということではありません。神のいのちに加えられることができるか、何をしたら救われるのか、という問いです。この問いは難問中の難問とされていたものです。

それに対してイエスは直接応えずに「あなたは律法をどう読んでいるか」と尋ねられます。つまり、あなたは律法の中でどれが一番大事だと考えるかとお尋ねになったのです。すると、律法の専門家は、そんなことも分からないのかというニュアンスで「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と返します。すると、イエスは、「その通りだ。後はその通りあなたが生きるだけだ」というのです。

しかめ面をして、理屈をひねくりますことより先に、そのように生きなさいよと仰ったのです。そう言われた律法学者はメンツをつぶされたのも同然ですから、憤りながら言い返します。「では、私の隣人と誰ですか」

隣人を自分のように愛せというけれど、その隣人はいったい誰のことなのですか。あなたのことですか、家族のことですか、友人のことですか、それとも誰でも目に入った人のことですか。愛そうと思っても、誰を具体的に愛したらよいのですか。そんなことを述べようとしたのです。

ところがイエスはその人の話を遮ります。30節の「お答えになった」は「遮る」と訳した方が良いのです。つまりこれから長々と律法学者が理屈をこねようとするときに、それを遮るようにして、イエスはあの有名なたとえ話をお話になるのです。このたとえはとても優しいギリシャで書かれています。誰でも分かるような言葉なのです。律法学者が、理屈をこねまして、誰も分からないようなことをいっているその時、イエスは、そのことばを遮って、子どもも分かる言葉で話し出したのです。

「良きサマリア人」といわれているたとえ話に登場する、サマリア人の愛は尋常なものではありません。その理由も、聖書によれば、「憐れに思い」とあるだけです。見返りを期待したのでもなければ、人々からほめられたいからでもないのです。傷ついた「隣人」を、「自分のように」「愛した」のです。

イエスは、律法の専門家に「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問い、あなたも同じようにしなさいと命じられたのです。

イエスが「あなたも同じようにしなさい」と命じたというのは、実はイエスがそれを実行していたからなのです。このサマリア人とは、実はイエスであり、隣人とは私たちなのです。

人生の旅の中で、突然の不幸に襲われ、すべてを奪われてしまうという悲しい事態の中で、あのサマリア人のように近くに来て、寄り添い、親切の限りを尽くす存在があるというのです。報いを求めるので、人からの評価のためでもなく、ただあなたを愛するという理由だけで、愛を貫いて下さる方があるのです。私たちはイエスの尋常ではない愛を受けているのです。

本当の「隣人愛」があるところ、それが神の国です。イエスが、私の隣人になってくれたという喜びと感謝が、「隣人愛」ヘの実践の決意を生み出し、それを行おうとする力を与えてくれるのです。

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