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迫害の中にある教会へのメッセージなのですが、キリスト者であるということだけで、自分の生活が不利になってしまうのですから、キリスト者であることは隠して、心の中でキリストを信じていれば良いではないだろうかと私たちは計算しますし、当時の教会の中にはそういう人たちもいたにちがいありません。

イエスは8節以下で大変厳しいことを語っています。

記されているのは、死後のことで、私たちは神の前に立ちます。その時に、その時、イエスが「この人はわたしの仲間です」と言ってくれたら、こんなに心強いことはありません。けれども、この世界で、私を知らないという人に対しては、イエスも「私は、この人を知らないという」と書かれているのです。

まるで脅すようにして、イエスはキリスト者たちに「迫害の中にあっても、わたしを主と告白することをさけてはならない」と迫るのです。どうしてでしょうか。

ここでイエスは激しく叱咤激励しているのです。でも、それは人間に対する憤怒のためではありません。むしろ、深い愛情に基づくものだと思うのです。

それは10節で明らかになります。

一見難解な箇所ですが、イエスの「悪口はを言う者は皆赦される。」というのです。苦しいときに、私たちは思わず神に恨み言をいいたくなることがあります。いいえ、神にしかぶつけられないという事態に遭遇することがあるのです。「神は何故沈黙しておられるのか!神は本当にいるのか!神の目は節穴か。それでも神か。それでも愛だといえるのか。」そんな叫びをすることがありますが、それは「皆(すべて!)」赦されるというのです。どんな酷い言葉を使っても、酷い表現をしても、人間がイエスの悪口を言うことは赦されるというのです。

ところが、それに続いて「聖霊を冒涜することは赦されない。」といわれます。

私たちは不思議な経験を持っています。「何度も読み流していた聖書の言葉が、突然自分に迫る神からの呼びかけの言葉となる。讃美歌が慰めの言葉となる。祈りの言葉が主の励ましの言葉となる。説教がまるで自分に語っているように感じる。…」こういう経験は、キリスト者の共通の経験であり、それを私たちの心に働きかけてくださる神の力によるのだと教会は考えてきました。目には見えないけれど、たしかに存在して、私たちの心や魂に働きかけて下さる神の力があり、その働きを「聖霊」と呼んだできたのです。

迫害の中で、イエスを主と告白をしないことを選択するのは、結局は「自分に不利になるかもしれない」という打算からではないでしょうか。言い換えると「神を信じている」ことを、自分で信じたから選択できると考えているということになります。信じる力は神から与えられたのだと確信しているならば、神がその後も最も良いように導いてくださるということを信じられるにちがいありません。神の力を信じていないから、自分で計算をして、不利になると予想をしたり、不安があるからできなくなるのです。つまり、それが神の力である聖霊を冒涜していることになる。

聖霊の導きを信じようではありませんか。不安や心配はあるでしょう。けれども、聖霊によって神と出会い、神を信じるに至ったのだから、これから後も、神の力によってすべてのことを乗り越えていけるし、すべてのことが働いて益となることを信じようではありませんか。そうすれば、どんなときでもいうべきこと、やるべきことは聖霊が教えてくれるのですというのがイエスの約束なのです。

イエスは、本気で私を信じなさいと言っているのです。私を信頼しなさいと言っているのです。それは真剣に本気でわたしはあなたを愛しているのだから、あなたも本気でそれに応えて欲しいという呼びかけなのです。イエスは日々、これほどに真剣な、真面目な、心のこもった呼び掛けをして下さっているのです。

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