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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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教会の一年の始まりはアドヴェントにあります。私たちの歩みの全てが、主を待ち望む日々なのだということを一年の始めに再確認するのです。それは「昔、昔ある所にイエス・キリストがお生まれになって」という昔話をただ繰り返し回想する期間ではありません。やがて、きたるべき主の再臨、天の国の到来を待ち望むことです。かつて来られた主イエスが、「再び来る」と約束された、その日、その時を「マラナ・タ(主よ、来て下さい)」と待ち望みつつ、いま一度、信仰の帯を締めて、自らの生活にみ言葉を灯して過ごす時です。

アドヴェントには、毎週一本ずつろうそくが灯されます。この習慣は、1800年代の中頃ドイツ・ハンブルクの児童養護施設で始められたものだそうです。路頭を彷徨っていた子どもたちを受け入れ、アドヴェントに毎日一本ずつロウソクが灯されたそうです。ろうそくの灯で、世の光キリストの降誕・来臨を記念して過ごしたのは、そのような身寄りのない子どもたちだったのです。「わたしは、あなたがたを孤児にはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(ヨハネ福音書14:18)との主の約束を思い起こさせます。

私たちは、生と死の狭間で路頭を彷徨う孤児ではありません。自分の過去と未来の狭間で、後悔や不安を繰り返し、今に意味を見出せず、ひたすら「徘徊」しているのでもありません。この私を愛し、招き、迎え入れて下さる方が来て下さる。その約束の中を生き、この約束の中で、死の眠りにつくのです。生きていく時にも、死にゆく時にも、私たちはこの主を待つ希望に支えられているのです。

「人の子は、思いがけない時に来る」(44節)とあります。主イエスの再臨、終末、御国の完成、それは全く思いがけない出来事なのだというのです。そんなことを聴かされると、ある人たちは、その出来事がいつ起こるのかと不安になって落ち着きをなくし、「今日」という与えられた日を生きていくことが出来なくなります。いや、実は再臨とか終末ということに関わらず、私たちは「今この時を生きる」ということ自体、苦手なのではないでしょうか。過去に囚われたり、明日を思い煩い、心騒がせながら、今そのものを生きることができないのです。この箇所は、「あなたに与えられたこの時に心を注いで生きよ」、「神が愛し尊び与えて下さった今を無駄にしてはならない」と私たちに呼び掛けているようです。

私たちにとって、「思いがけない時」というのは、何も「終末」とか「再臨」ということだけではありません。実に、毎日毎日が思いがけない神の恵みの訪れで満ちているのです。 2000年前のイエス・キリストの降誕、それは誰にとっても思いがけない出来事でした。受胎告知されたマリアや夫ヨセフがいかに驚いたか。羊の番をしていた羊飼いが、ヘロデ王が、いかに驚いたか。幼子を抱いたシメオンがいかに驚きながら神をたたえたか。そして、それから30数年後、主イエスはご自分を受け入れようとしなかった人々によって十字架に磔にされました。けれども、この十字架の死が、神にとっては、世を救うために欠かせない出来事であったのだという福音は、何よりも思いがけないことではないでしょうか。聖書がこうして告げるように、神の業は、私たちにとって、いつも思いがけないものです。

詩編139は歌います。「あなたの御計らいはわたしにとって如何に尊いことか、神よいかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる。」
私たち人間が抱く計らいではなくて、ただ主の愛の計らいによって、今日を生かされ、今日へと遣わされている私たちです。なんの変哲もないと思われる日々、あるいは悲しみや恐れに苛まれる日々も、実は思いがけない神の愛に満たされているのです。私たちが問うべきことは、再臨と終末はいつくるかではなく、今日という恵みの時をいかに生きるかということです。「その日、その時は誰も知らない」と言われた主はこうも言われました。「明日のことまで思い煩うな」。神が独り子を与えるほどに愛して下さったその愛が、今日も私たちをとらえています。今日一日の中に秘められている神の心からの恵みを味わい、そして互いに分かち合う2016年度のアドヴェントを始めましょう。

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