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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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神が天地を創られた時、地は混沌とし、闇が深淵の面にありました。その混沌と闇の只中で「神の霊が水の面を動いていた」と聖書は物語ります。神はこの世界の混沌と闇の外側ではなく、只中で働かれる神なのです。しかし人間は、やがて神を忘れ去り、ただ自分たちに都合のよい世界に造り変えようとしました。創世記は天地創造の物語に続いて、人間の果てしない罪の現実について語り始めます。けれども神は人間を見失うことも、見捨てることも断じてありませんでした。神は罪の世の只中で、「わたしはここにいる」と言わんばかりに産声を上げてご自身を示されたのです。

教会の暦では「降誕前節」に入りました。イエス・キリストの降誕とは、一体何事であったのでしょうか。繰り返し問い、繰り返し行き着く答えは、やはり「インマヌエル」(神、我らと共にいましたもう)ということです。永遠なる神が、この世界の只中で生きて働いておられるのです。闇と混沌の覆う天地創造の初めから、世の終わりに至るまで。キリスト降誕は、そのような神の現実へと私たちを立ち返らせる出来事です。

創世記は、世界が7日間で創造されたと物語ります。このことは私たち一週間という生活の基本単位となっています。すなわち、一週間とは神様の創造のみ業を確かめ味わう歩みなのだと言えるでしょう。私たちは毎日手帳にスケジュールを記入し、忙しく生活をしておりますけれども、その一日一日は神の創造物語そのものなのであり、この創造の中でこそ今日の私が「生き、動き、存在する」(使徒17章28節)のです。

天地創造の日毎の節目には「夕べがあり、朝があった」という句が繰り返されています。ここには私たちの人生そのものが投影されているともいえるでしょう。私たちの人生にも、夕べがあり、朝があります。悲しみと喜び、苦しみがあり感謝が繰り返します。締め付けるような不安があれば、解き放つような平安もある。夕あり、朝あり、そのような私たちの人生の最初にも神様は「光あれ」と告げて下さっているのです。「光あれ」との声が、夕あり、朝ありの人生全体に響き渡っています。

天地創造第7の日に至り、「夕べがあり、朝があった」との句はもはや繰り返されません。その代わり、神がすべての仕事を完成して安息され、祝福したと記されるのです。私たちの人生もまたきっとそうだと信じます。夕べがあり、朝がある、「一体、いつまでですか」と疲れや諦めや空しさを覚える日もあるでしょう。果てしなく暗く深く恐ろしい時、寂しい時があります。すべての人に死の時があります。しかしその夕べの時もまた、「朝ありき」(文語訳聖書)との約束の中に置かれています。神の安息と祝福に全く包まれる完成の時としての「第7の日」です。こうして何事も、私たちではなく神が成し遂げて下さるのです。

主イエスがヨハネから洗礼を受け、「水」から起き上がった時、「神の霊」が鳩のように下って来たとあります。このことは、創世記1章の「神の霊が水の面を動いていた」を彷彿とさせる出来事です。すなわち、主イエス・キリストこの方において、新しい天と地の創造が始まったということが示されているのです。
天地創造物語は、私たちにとて、はるか昔の出来事でも、また単なるファンタジーでもありません。主イエス・キリストこの方の死と復活を土台として、今日も私たちの間で進められている現実なのです。「御国を来らせたまえ」と祈る私たちの人生の只中で、なお混沌と闇が見え隠れする夕あり、朝ありの世界の只中で。
「悲しみの涙、今拭われ、嘆きも死もなく、労苦もない。古いものすべて過ぎ去りゆき、見よ、主はすべてを新たにする」(讃美歌21−580)

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