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「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解しなさい」(エフェソの信徒への手紙3章)。ある方がこのように説明しています。「物を測る時には3つの方向から測るものだ。しかし、ここには、「広さ、長さ、高さ、深さ」と4つの方向が語られている。どういうことか。それはわたしたちが、キリストの愛の外側に立って測っているのではなく、もはやその愛の内側に立っているからなのだ」。キリストの愛の内側から見渡すと、その広さ、長さ、高さ、深さが見えてくるのです。そこで私たちは自分というものを本当に知ることができるのです。シモン・ペトロにとって、ガリラヤ湖は、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを再確認させるそんな場所だったのもしれません。彼は、今、再び沖に漕ぎ出していきました。

エルサレムにいた弟子たちが、いまガリラヤ湖で漁をしていることに、おやっと思われるかもしれません。復活した主イエスは弟子たちにこう言われたのです。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(20章21節)で、そして息を吹きかけ、弟子たちを伝道者として派遣したのでした。なのに弟子たちは、漁をしているのです。その中にあのトマスがおります。トマスと言えば主イエスとの感動的な再会を果たした人物ではないですか。復活の主を心の奥深くで信じ、新しくされたはずの彼がなぜ湖で漁なんぞしているのか。

ある人は、弟子たちを批判して、「彼らは旧態依然としている」とか「復活の主に出会ったにも関わらず何事もなかったかのようにかつての生活に戻ろうとしている、わたしたちはこんな風であってはダメなのだ」と言います。

しかし、わたしはどうしてもそうは思えません。ペトロはここで、自分が出会った主イエスという方を、その方の愛の広さ、長さ、高さ、深さを再確認しつつ、この方によって息を吹き込まれ遣わされた者としてどこに向かっていくべきか、再スタートしようとしているのです。

ガリラヤ湖で網を垂れるという、しばらくの時を抜きにしては、その後の彼らの力ある伝道の働きは決してなかったに違いありません。

今年2月に、青森県にある「森のイスキア」を主宰しておられた佐藤初女さんという方が94歳でなくなられました。青森県の山麓で、心や体を病んだ人を迎え、おにぎりをにぎり、季節の食材で食事を共にし、憩いと安らぎを与える。皆そこで自分を取り戻してまた歩き出していく、そんな場所です。ガリラヤ湖の岸辺で、復活した主イエスはパンと魚の食事を用意して下さっていました。その朝食を共にしながら、主が新しい朝を備え、そして満たして下さる方であること、どんな時も自分たちはこの方のもとに帰り、そしてこの方によって生きている自分というものを取り戻し、出発することができるのだということを確信し勇気づけられたことでしょう。

私たちにもこのようなガリラヤ湖が必要です。そして礼拝のひと時こそそのような場所です。ここに帰ってきて、主イエスの愛の中に身を置き自らを再確認する。まさにこのしばらくの時間が不可欠なのです。

沖で漁をしている弟子たちに主イエスは、「なぜこんなところで油を売っているのか。あなたがたは派遣されたのだから、さっさと伝道しなさい」などと叱ったのではありません。「何か食べものがあるか」とごく自然に呼びかけました。「主だ」と気付いた一人の弟子が叫ぶと、裸同然だったペトロは、反射的に服をきて、隠れるところがなかったので湖に飛び込みました。服を着て飛び込むなんてとんちんかんです。でも、そこにこそペトロの正直な気持ちが現れています。まるでアダムとイヴが裸であることを恥じて、いちじくの葉で体を覆い隠したのと同じです。全部が主に見出されている、湖の上、主の広い愛の上で隠れることなどできない恥ずかしさ。

「イエスなど知らない」と3度も主を否定したペトロでした。イエスなど知らないと言った自分が、しかし、主によってすべて知られている、そのまんま見つめられているのです。とてつもない恥ずかしさの中で、ペトロは主イエスの呼びかけをはっきりと聴きました。「さあ、来なさい」「さぁ、来て朝の食事をしなさい」。主の招く声を聴いたペトロは、どこまでも赦され愛されている自分を知りました。

食事の後でイエスは言いました。「私に従いなさい」(21章19節)。私たちのことをすべて知る主が、私たちを愛し、そして必要とし「あなたと一緒に歩んでいきたいのだ」と招いて下さいます。私たちが必要としたのではなく。2016年度、礼拝という沖に立ち、互いに「主だ」と喜び確かめ合い、全てを知り見つめておられる主が招いて下さる食卓を囲み、ここから新たに始められる主の業に加えられていきましょう。

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