札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光

日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

札幌北光教会/トップお問い合わせ
札幌北光教会/トップキリストの招き平和宣言過去の信仰告白オルガン結婚式・葬儀アクセスマップfacebook
教会案内礼拝案内集会案内牧師紹介/説教納骨堂/クリプト北光貸し会議室

>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >だから、恐れるな


マタイによる福音書10章は、主イエスが12人の弟子を選び出し、町や村へと福音宣教に遣わす場面です。狼の群れに羊を送り込むようなものである(16節)と主が言われる通り、福音宣教は容易なことではありません。ましてガリラヤの一介の漁師であった者たちにとって、何も持たずに遣わされることは、どんなに心細いものだったでしょう。
マタイによる福音書は、紀元80年前後の時代状況を念頭に記され、そして読まれました。その時代はキリスト者への迫害が少なからず発生していました。その中でキリスト者たちは、ひたすら身を隠すのではなく、かえって迫害の中で大胆に福音を告げ知らせていくという、より困難と思われる道に進みました。

そのようにして神によって御業のために用いられた者たちは、いつも力ある有望な者や知識に溢れた人々というよりも、むしろ平凡な者たちであり、社会で小さくされていた人々でした。何も持たない、そんな彼らだからこそ、すべてが神の業であるということを鮮やかに証しすることができたのです。

「2羽の雀が1アサリオンで売られているではないか」。宣教に送り出す弟子たちにそう主は告げました。ルカによる福音書12章では、「5羽で2アサリオン」(12章6節)です。計算では1羽はサービスということになります。それくらい価値の低いものだということです。しかし、その一羽の雀さえも、神のお許しがなければ、地に落ちることはない(死ぬことはない)のです。2羽1アサリオンでも、5羽2アサリオンでも、さほどこだわらないようなことにも、神は思いを向け、1羽の雀を心に掛け、大切にして下さっているという話です。最も小さい者においてさえ、神の配慮と働きが隅々まで行き届いている。これは実は、どんなスケールの大きな話よりも、壮大な話なのではないでしょうか。

ところで、少々斜に構えた読み方ですが、1アサリオンで売られていた2羽の雀というのは、「神のお許しで」地に落ちたということになります。そして、1羽の雀が安売りされていたのではなく、「2羽」の雀というところにも意味を見出せます。1羽が、わたしであるとするならば、もう1羽は主イエスであると言えないでしょうか。羽が傷つき、疲れ果てて地に落ちてしまい、悲鳴を上げている。それは、主の弟子たちが遣わされた彼の地で、戸惑い、嘲られ、惨めな思いになっている姿、あるいは私たちの日々の生活にも重なります。まるで雀のように小さく扱われる、自らも小さな、恐れの世界に閉じこもってしまう。しかしその時、雀は1羽ではなく2羽なのです。「神がこの私を地に落とされたのだのではないか」と嘆く時に、「なぜ私だけがこんな目に」と思わずにおれない、その最も深い淵の底にくずおれる時、主イエスも共に地に落ちて下さっているのです。十字架の主の姿は、そのことを私たちに告げています。

しかし、この方は共に地の底で絶望して下さるだけではありません。神はキリストを復活させられることを通して、その絶望の淵から私たちを導き出して下さる神であることを示して下さいました。「だから、恐れるな」そう呼び掛けて下さる方が、今日、私たちにはいます。気休めだけで「恐れるな、私はあなたを知っている」と呼び掛けるだけで、実際には指一本貸さないという方ではありません。私たちが信頼する方は、指一本どころか、全てを私たちのために献げ、更には死を越えて私たちを担い、背負い、救い出すと約束して下さる真実な主です。「一事が万事」と申しますが、私たちにとって万事が、ただその一事によって支えられています。

芸術品や土地等々、世が付ける価値というものは、常に変動します。しかし、神にとっての私たちは、揺るがぬ宝です。イエス・キリストがこの人の中にも共におられる、この人のためにも十字架にかかり、この人のためにも復活され、生きておられるという、変わることのない最高の価値を互いに認めながら、その喜びを伝えていく宣教の旅へと、私たちもまた主に遣われて行きましょう。

前のページに戻る

お問い合わせ北光幼稚園

個人情報保護方針について