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1節に「イエスは12人を呼び集め」、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能をお授けになった」とありますが、ここで話されようとすることは、イエスと同じ時に生きていた弟子たちがどうこうしたという問題ではなくて、それからのちもイエスの福音を伝える教会がどうであったかということをテーマにしています。

そう考えますと「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能が授けられている」のですから、イエスは弟子たちに、それらに打ち勝つ力と権能を与えられたのですし、後のイエスに従うものにも与えられていると語っているのです。

すると当然疑問がでてきます。そんな権能と力が教会に与えられているのだとすれば、何故、東日本大震災が起こり、福島第一原子力発電所はレベル7の最悪の事故を起こしたのでしょう。そしてその時教会はそれをとどめことも、そこで泣く人に対しても「癒やす」力を与えられなかったのではないか…そんな疑問です。イエスが生まれてから2000年間、飢えに苦しむ人があり、差別に苦しむ人があり、持たないものがますます奪われている、人間の病は癒されるどころか、苦悩が深くなっているのではないでしょうか。

そんな疑問を持ちながら、さらに聖書を読み進んでいきますと、3節以降に旅に出るのに「何も持つな」というイエスの命令があるのです。

このことについてある人は、昔は巡回説教者がいて、彼らを受け入れる人たちも村の中にいたので、だから不可能ではなかったといいます。しかし、イエスの弟子たちは宗教的な修行を積んできた人ではなく、漁師であったり、徴税人であったり、どちらかというと罪人の仲間と考えられていた人たちである。いわば何一つ持っていないものが、何も持たずに出て行ったということなのです。

何も持たないものが、すべてを持っている。それが信仰のなのです。自分はこれだけの能力を持っているから、自分はこれだけのものを持っているから、大丈夫なのだというのではなくて、イエスに遣わされているから、大丈夫なのだという確信です。人間の良い可能性は、自分のうちにあるのではなくて、神から与えられているのです。

「主よ、助けてください」彼らは祈りながら日々を送ったであろう。そして不思議に守られてイエスの所へ帰ってきたのです。何一つ持たないものが、すべてを備えられ、与えられているという経験から、必要なものはただイエスが共にいてくださるという事実だけだということを経験したのです。

そして、イエスは弟子たちに「とどまりなさい」と命じています。この言葉は「続ける、耐える、生活する、待つ」など多様な意味を持っていることばです。人間は何か自分に気に入らないことがあると、すぐに関係を切ってしまおうと考えるのですが、ところがイエスは「続けなさい。耐えなさい。待ちなさい。そこで生活を共にしなさい」と命じたのです。それは期待し続けるということです。

人間が危機の中でもう一度立ち上がる力を与えられるのは、誰かが自分の可能性を信じていてくれているという思いがあるからです。そしてイエスこそ、弟子たちの可能性を信じ続けた神でした。人間の可能性のために、いのちを投げ出した神でした。だから私たちも隣人の可能性を信じ続けるのです。

おもねるのではありません。福音を通してその人に期待し、その人の可能性を信じ、たとえ自分の手に余るときでも、神に委ねながら、主にあってその人の可能性を信じるという関係を築いていくのです。

実際に、弟子たちがそのように行うと、彼らは神に守られ、神に可能性を与えられ、神によっていたるところで福音を宣べ伝えたのです。「至るところ」という表現は彼らの思惑を遙かにこえてということが含意されています。

「何も持たないが、すべてを持っている。何も持たざるがゆえに可能性に満ちている。」それが教会なのです。

大切なことは何かが言えることではない、悪霊を追い出せることではなく、イエスが共にいてくださることを信じることなのです。何一つ持たないで、神の前にでることなのです。

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