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5千人の給食の出来事の翌日、群衆の一部は、姿を消した主イエスを探し回り、カファルナウムまでようやく見つけました。再び空腹と疲れを覚えていたことでしょう。そんな彼らに主イエスは言いました。「あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」

あなたたちは食べたらなくなるパンのために、心も力も使い果たしてしまうのかとの問いは、私たち自身の生き方を顧みさせます。確かに、食べること、働くこと、あるいはお金を得ることは生きるに不可欠ですが、それによって一時の満足や使命感や充実感を享受できたとしても、生きていることの本当の幸せ、命の喜びというものが大きな忘れ物として置き去りのまま、という人がなんと多いことでしょうか。

「なんのために生きているのか」「この先の人生に何の意味があるのか」と、実は心が渇ききってしまっている自分にふと気付くことがあるかもしれません。ある人は自暴自棄になって言います。「私みたいな人間は、この世に生きていようといまいと、社会にはなんの影響もない。自分なんてなんの意味も価値もない存在だ」と。
真面目に、一生懸命に、頑張って生きてきたからこそ、文字通り心は「頑なに、張って」しまいます。

群衆は、もう一度満腹になるために、舟を漕ぎ、町を探しました。頑張りました。しかし。主イエスは、パンの奇跡を再び見せては下さいませんでした。頑張った先で再び満腹になったとしても、そこには主イエスが示そうとされている「本当の幸せ」「命の喜び」はないのです。本当に食べるべきパンは別にあります。永遠の命に至るパンをこそ食べて欲しいのです。

「永遠の命」とは、一言で、この私が神によって「生かされている」ことを知る、ということに尽きます。神様によってどこまでも「愛されている」ことを信じるということです。
頑張って自分の人生を「生きている」のではなく、今日この時、愛されて「生かされている」。そのことを信じるならば、その人の命は永遠です。なぜならその人はもう、永遠の神の、永遠の愛の中にいるからです。

たとえ生活に失敗しても、治る見込みのない病気になっても、将来を描くことができずに不安でいても、どうしても変えられない、なす術もない現実が目に前にあるとしても、神様は私たちに約束されています。「わたしがあなたを担い、背負い、歩いている、あなたへのこの愛は何一つ変わりはしないのだよ。」永遠の命とは、この約束の言葉(パン)を繰り返し味わい、噛みしめながら今を受け止め、今を主に委ねて生きていくことです。

イエス・キリストは、その神様の約束の言葉の体言です。このわたしを捜し、訪ね、寄り添い、命を捨て、また死を越えて出会って下さるこの方こそ、神様の朽ちることのない愛の言葉(パン)です。

「あしあと」
ある夜、私は夢を見た。
私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつも私の心を乱していたので、
私はその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。私があなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において私とともに歩み、
私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番つらいとき、
一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、私を捨てられたのか、
私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。
私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとが一つだったとき、
私はあなたを背負って歩いていた。」

奇跡とは何でしょうか。人生という渚を見事に軽快に歩み通せることでしょうか。そうではなく、辛く悲しくて立ち止まる時、寂しさと不安に包まれうずくまる時、しかし、この私を絶対に諦めず、愛しつづけて下さる方が「こんなにも近くにいて下さった」ということ、この方によって担われ、生かされていた自分だったのだという発見、それこそが奇跡であり、本当の幸いです。

朽ちるパンを求める群衆に主イエスは言われました。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。奇跡(神の業)とは、パンが増えることではなく、神がお遣わしになったイエス・キリストを信じることです。私たちに出会い、命を捨て、また死を越えて、私たちの命を担い背負って下さるこの主イエスの姿に、私たちの命をとこしえに愛していてくださる神の言葉が、体現されていることを信じることです。この私を生かして下さってきた言葉と足跡は、ここから先も続いていきます。この方と共に歩んでいきませんか。

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