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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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主イエスの弟子として最初に従った二人の内、一人の名前はアンデレ。しかし、もう一人は不明です。記念すべき最初の弟子であるにも関わらずです。この謎の弟子とは、この福音書に触れている私たちなのかもしれません。私たちもまた主イエスに振り返られ、見出され、来なさいと招かれた弟子の一人に数えられているのだという恵みを覚えることができます。

「どこに泊っておられるのですか」と尋ねる二人に主イエスは「来なさい、そうすれば分かる」と告げました。そして二人は、イエスがどこに泊っておられるかを見ました。そこはどんな光景だったでしょう。飼い葉桶に寝かせられたイエス、「人の子には枕するところもない」と言われたイエスが宿していた場所とは。もしかすると野宿さながら、あるいは病者や貧者の家であったのかもしれません。まことに意外な所を宿とし、意外な人と共に生きていた。そのことをこの二人は見たかもしれません。真相は私たちには分かりません。しかし私たちも「来なさい、そうすれば分かる」と招かれています。そう、とにかくついていってみなければ分からない、驚き、喜び、慰めの光景があるのです。

この日二人が、主イエスと共に泊ったのは「午後4時頃」と、わざわざ書いています。肝心の弟子の名前は不明のまま、チェックイン時刻は特定されています。聖書は時折、事の起きた時刻を明記することがあります。要するに、その出来事が時刻を明記するほどの決定的出来事であったということだと思うのです。では、午後4時とはどんな決定的瞬間だったのでしょうか。それは史上初の主イエスの弟子が生まれた瞬間であると言えるでしょう。私たちもまた、洗礼によって自分がキリスト者として歩みだした「午後4時」というべき、その決定的な出来事を覚えつつ、自らの歩むべき方向を見定めていくものでありたいと願います。

さて、主イエスの最初の弟子の一人アンデレ。彼は兄弟ペトロをイエスのもとに連れていきました。教会というのは実にこのようにして広がっていった、いやこうした人と人の身近な繋がり、出会いの中からしか広がっていかない、深まっていかないということを示唆しているように思います。「主よ、この人のことをもどうか知って下さい」との祈り、願いそこに教会は造り上げられていくのではないでしょうか。それは大袈裟かもしれませんが、主の前にその人のことを「捧げる」ことであり、「委ねる」ことです。アンデレはペトロを主に委ねました。そして主イエスはペトロを「見つめた」(42節)とあります。捕えられ裁かれるイエスを「知らない」と三度否定した時にもまた、ペトロは自分を見つめる主の眼差しを知りました。誰しも、信仰というものは、自分がその時主に見つめられていた、知られていたという驚き、そして畏れの中にこそ生じるのです。

ナタナエルの場合も同じです。イエスをメシアと信じることのできないナタナエルに、フィリポは「来て、見なさい」と言いました。「見よ」と言うのです。実にヨハネ1章は一日おきに、「見よ」(29節)、「見よ」(36節)、「見よ」(46節)と繰り返し呼び掛けます。そうして、ナタナエルが見たものは、主が自分を見つめておられたという事実でした。ナタナエルはいちじくの木の下にいました。いちじくは、身を隠したアダムとイヴを連想させます。いちじくは、人間が神の前に裸であり、神の前に罪と恥を抱えている自分をありのままに知られていることの象徴です。ナタナエルもまた一人の人間として、罪と恥の下にいたのです。そんなナタナエルを見落とさず、見捨てず、見過ごさず、見下さず、見失わないその眼差しによって、彼はイエスを信じ従ったのです。

私たちもまた「来て、見なさい」「来なさい、そうすれば分かる」と招かれています。行かずして、いちじくの下に留まったままで、「見えない」「分からない」と呟き嘆いてしまうことの何と多いでしょうか。礼拝の最後の「派遣」で「行きなさい」と呼び掛けられています。どこへ行くかよりもまず、誰と行くかが問題です。「来なさい、そうすれば分かる」そう告げられる復活の主と共に行くのです。日々、告げられる主の言葉、主の眼差しを確かめつつ、主が命を懸けて成し遂げて下さった偉大な御業を味わい見、日々の中に示されている恵みを発見する旅としたいと願います。

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