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向こう岸からイエスがユダヤに帰ってくると、群衆が彼を喜んで迎えました。イエスを必要とする人たちが大勢いたのです。そこにヤイロという会堂長がやってきて、イエスの足下にひれ伏したのです。これはあり得ないことでした。彼は会堂に仕えるもので、彼の生活を支えているのはイエスの敵対者である祭司やファリサイ派の人たちでしたから、こんなことをすると彼は仕事を失うかもしれないのです。

何が彼にそれをさせたのでしょうか。それは、彼の娘が「死にかけている」という事情があったのです。

ヤイロの一人娘は12才でした。手塩にかけてきた娘がようやく一人前になろうかというとき、重い病に倒れます。全財産をはたいて治療を試みたのでしょうが、容態はますます悪くなる一方でした。死に向かいつつある娘を見ながら、ヤイロはひとりの男の噂を思い出します。それがイエスなのですが、この男は彼が仕えている会堂の権力者である祭司たちから敵対視されていたのです。会堂長であるヤイロがイエスのもとに行くことは、地位や名誉や財産を捨てる覚悟が必要でした。

娘が息を引き取るのではないかという直前にヤイロは決心して、自分自身でイエスのもとに出かけ、その足下にひれ伏したのです。

イエスは彼と一緒に出かけて行かれたのですが、その途中、会堂長の家から人がやってきて「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と伝えられます。「娘が死んだ今、わざわざイエスを家までつれてくることはない、今ならまだ取り返しがつく」そんなニュアンスの言葉です。

その時、イエスは会堂長に語りました。「恐れることはない。ただ信じなさい」イエスを信じるということの厳しさが表れている言葉です。私たちの目からすると現実は閉ざされているように思える中で、イエスは「恐れるな、信じなさい」と語りかけるのです。このイエスを信じるのか、それとも現実の前に膝を折るように生きるのか、それが信仰の戦いなのです。

会堂長の家に近づいたとき、そこに「泣き悲しむ」ことを生業にする人たちがいました。人の死を飾るために涙し、悲しみ、騒ぎ立てる人たちが会堂長の周りにいたのです。この人たちが本当の意味でこの娘の死を悼んでいないことは、イエスの「眠っているだけだ」と言ったときの彼らの冷淡な反応からわかります。

ここに人間の抱える悲しみの本当の恐ろしさを感じるのです。それは、本当に悲しんでいるのは、自分一人だという現実を突きつけられることです。ヤイロは娘の死に瀕する悲しみを経験するとき、その中で、誰もそのことを共感してくれていないし、自分一人で悲しみを担わなければならないということを経験してきたに違いありません。

そのヤイロにイエスが語った言葉、「恐れることはない、ただ信じなさい」という宣言は大きな力を持っているのです。イエスは、他の人とは違って、その娘の重病と死をヤイロと共に悲しんでくださるのです。そして、ヤイロと共に悲しみの場へと足を運んでくださるのです。「恐れることはない。ただ私を信じなさい」と語りかけながら、ヤイロと一緒に歩んでくださるのです。

イエスは娘に向かって「娘よ、おきなさい」と宣言し、少女は起きあがり、食事をとりました。しかし、この物語で、私たちが教えられるのは、イエスが、悲しみの極みで孤独にあえいでいる人に伴ってくださる方だいうことです。そして、「恐れるな。ただ信じなさい」と語りかけてくださるということです。そして、そのイエスを信じるとき、私たちの思いを超えた神のできごとがそのところで起こるということなのです。

イエスの「起きよ」は少女に向けて語られたのですが、私は「死んだような状態の」ヤイロに向けて語られた言葉でもあると思うのです。少女が起き上がったように、悲しみと孤独の中で、暗闇の中に座り込んでいたヤイロも立ち上がったのです。そして、これは私に語られている宣言なのです。

イエスはすべての悲しみを包む愛をもっている方なのです。その方が、「恐れるな。ただわたしを信じなさい。私の愛を信じなさい」と語りかけてくださるのです。

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