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「イエスは生きておられる」との知らせを聞いた二人の弟子は、なぜペトロのように墓に向かわず、エルサレムからも、弟子たちの群れからも離れ去ろうしたのでしょうか。墓に行けば希望と喜びがあるかもしれないのに。クレオパと、名前の伏されたもう一人の弟子。そこに私たちの名前を当てはめるように、との聖書の誘いかもしれません。自分のこととして読む時、二人の弟子のいろいろな感情を想像できます。「皆で主を裏切り逃げておきながら、今更どの面下げて会えるっていうのか!」、すぐに墓へ向かって走り出した単純なペトロへの軽蔑と、その単純さへの羨望…。あるいは、中心的な12弟子ではない自分のような者がイエスの前に親しげにしゃしゃり出ることへの気兼ね…。やがて、「自分のような者は、主に対しても、この群れにおいても相応しくない者なのだ」と自らを愁い、エマオへ歩き出すのです。その姿は、「自分なんか神様にも、この教会にも相応しくない者に過ぎない」そう感じて一歩・二歩と交わりから遠のこうとする、ある時の自分自身の姿ではないでしょうか。

どんどん遠ざかっていく彼らの背後から、イエスがどんどん近づき、ついに一緒に歩き始めました。イエスは御自身の復活を彼らにこそ示さなければならないその一心です。「何を話していたのか?」イエスの問いに、彼らは呆れ気味に答えます。「あなたはエルサレムに滞在していながら、この前そこで何があったのか知らないのですか!?」。でも本当は彼らこそ知らないのです。あの日、エルサレムで、十字架の上で、何が起きていたのかを。確かに彼らはエルサレムで起きた事件について時系列で説明できます。しかし、その奥に秘められた出来事、あの日あの十字架の上で、すべての人が背負われていたのだということ、神に愛されたのだということについては無知です。私たちもまた毎日の事柄に心囚われて、そこにある恵みも愛も赦しも見えないまま、失意の内にそれらを通り過ぎてしまう、遠ざかることがなんと多いことでしょう。

イエスは二人のために聖書を初めから教え始めました。しかしエマオ到着までのほんの数キロで終わるはずもなく…。そこでイエスは「この続きはまた明日。」ではなく、「なおも先へ行こうとされた」(28節)のでした。「まだまだ話しは終っていない!」といわんかのように、「一緒」懸命、み言葉を告げ続けるのです。二人が無理に引き止めなければならないほど熱中して。「心が燃えた」との経験は、きっとそんな主の熱情に触れたということです。イエスにとってこの二人が大勢いる弟子の二人に過ぎない(12弟子ではなく)ということは、何の問題でもありません。問題はただ「独り子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得る」(ヨハネ3:16)こと、彼らが自分の人生を「信仰と希望と愛」によって生きていくことです。そのために追いかけるのです。失われた一匹を捜し出す羊飼いの如く。

夕食の席で、イエスはパンを裂いて彼らに渡し、いま一度このパン裂きが何を意味しているのかを示しました。パンを受取った二人はその人がイエス御自身であること、そしてきっと、そのパンがイエスの命であることも分かったのです。するとそこにはもうイエスがいなかった。つまり、イエスの復活を内に熱く感じた時、イエスを目で見る必要がなくなったということです。イエスがわが主として、私の命の只中に、人生の只中に立っておられる。ただこの方のゆえに、自分は愛され、赦され、そして生かされている。その希望の光を見つめつつ、彼らの足は、夜の闇の中エルサレムに向かっていました。それは教会というものが芽生える一歩となりました(36節)主イエスは追いかけ、一緒に歩き始められます。「一緒」懸命にみ言葉を語りながら。「恵みと慈しみはいつもわたしを追う」(詩編23)のです。

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