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イスラエルの民は、神様によって、夜は火の柱、昼は雲の柱に導かれ、葦の海の奇跡の只中をくぐり抜け、天からのマナに養われ、そうして一歩一歩を導かれていたにも関わらず、いつ到着できるか分からない過酷な旅のゆえに、「神は本当に我々と共におられるのか」と何度も疑い、互いに争い、神を試みました。ルカによる福音書は「あなたの神である主を試してはならない」(12節)との主イエスの言葉を最後に位置づけて強調します。
人間とは、いかに神を試さずにはおれない生き物であることでしょうか。「神を信じること」と「神を試すこと」とは紙一重なのです。その紙一重こそ「悪魔」が最も好み、活発に働くところです。

誘惑の後、悪魔は「イエスを離れた」とありますが、実際には、主イエスに従う弟子たちや人々の心の中に常に潜んでいました。またファイサイ派の人々は、幾度もイエスを試そうとして近づいてきたのでした。
ヨハネから洗礼を受けた時、「あなたは私の愛する子」という声が響き渡ったと同時に、「神の子ならば」「本当にお前が神の愛する子ならば」との試みが十字架上に至るまでつきまとったのです。主イエスの公生涯とは、人々を愛した歩みであると同時に、人々から試され続けた歩みであり、ずっと「お試し期間」でした。

科学の領域であれば、ある理論が正しいかどうか何回も実証実験することは鉄則です。「スタップ細胞はあります!」といった方は、厳しい監視と様々な条件で制約された中で試され、世界の注目を浴び、徹底的に批判・揶揄されました。翻って私たちはどうでしょうか。キリスト者は、ある意味で「信仰はあります!」と告白した人々です。洗礼を受ける時、皆が「信じます」と神とこの世に対して告白したのです。しかし、主の眼差しのもと、様々な条件・状況に取り巻かれた中、私たちは信仰というものを完璧に実証するということができるでしょうか。

むしろ、私たちは、聖書の中に繰り返すペトロの失敗と挫折、そして再起のことが記されていること、主イエスがユダの足をも洗って下さったことに慰めと希望を見出すものです。主イエスは、人々からどんなに試されても、人々を試すことはしませんでした。「神の子ならば、十字架から降りてみよ」と試されても、自分を救うためにその力を用いようとはされませんでした。自分のためではなく、ただ人々のために用いて下さったのです。そうして、どこまでも主イエスが、この私を拾い、担い、背負い続けて下さっているという事実。そこに慰めと希望を見出せます。

「こまった時に思い出され、用が済めばすぐ忘れられる、どこにでもあるぞうきんになりたい」。私が以前代務をしていた光明園家族教会でも長らく牧会されていた河野進牧師のこの詩は、故・渡辺和子さん(岡山・ノートルダム清心学園理事長)を通して、今や一般にもよく知られるようになりました。このぞうきんとは、誰よりも主イエスご自身のことです。弟子の足を洗い、そして拭いて下さった主イエスの姿を思い起こします。主は、幾度も忘れられるぞうきんに徹した方です。

信仰生活に、お試し期間はありません。「試しに信じてみるか」という世界ではないのです。(そして聖餐は、試食ではないのです。)それは絶対に引き返せない領域です。しかし、それは自分を無理にでも強いて信じ込ませるという窮屈な領域ではなく、むしろ条件なしに愛され、赦されている、その事実に飲み込まれる世界です。もはや、試す必要のない世界です。

星野富弘さんの詩を牧師室に掛けています。
『雨にも負けて、風にも負けて、夏の暑さにも負けて、東に病人がいても、西に困った人がいても、何もしない。丈夫な身体になりたくて、健康食品に気を配り、うまいものが好きで、まずいものが嫌い。おかねも欲しい、着物が欲しい、そんな私が仰向けに寝ている』。

「あれができる、これもできる」と言えない自分、それでいていろんな欲望や臆病を抱えている自分。そんな自分が「仰向けに寝ている」。信仰の告白のようにも思えます。体を自由に動かせないことへの恨み辛みではなく、何も為し得ない自分を、そのままに受け容れて下さっている神様がいるから、自分は自分の今を受け入れられる。そんな平安が歌われています。

受難節が悔い改めの期節ならば、私たちは神様に己の不信仰を告白しなければなりません。十字架を担い抜かれた主イエスの姿を想い起こしつつ、自分に信仰の「ある」ことではなく、むしろ「ない」ということを偽りなく認める日々です。それこそ本当の信仰の業であり、信仰の闘いです。

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