札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光

日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

札幌北光教会/トップお問い合わせ
札幌北光教会/トップキリストの招き平和宣言過去の信仰告白オルガン結婚式・葬儀アクセスマップfacebook
教会案内礼拝案内集会案内牧師紹介/説教納骨堂/クリプト北光貸し会議室

>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >大胆に罪を犯せ、しかし


主イエスは預言者イザヤの言葉を引用してファリサイ派の人々を批判しました。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(6節)
数々の言い伝え(口伝律法)を遵守することで、自分を正しく敬虔なものと装い、その実、心は神から遠く離れてしまっていること、律法本来の精神を都合良く歪めていることを批判しました。これは、私たちも痛切に受け止めなければならないことです。自分の都合で聖書を解釈したり、主イエスの名を利用したり、隠れ蓑としてしまっていないか。最もらしく「これは神様の御心なのだ」「神様のご用のためなのだ」と人の心を操っていないか。

宗教改革500年という節目に立っています。プロテスタントは、聖書に基づかない数々の「伝統」が教会の中で造り上げられ、まことしやかに守られ続けてきたことを批判し、教会の真の権威は聖書だけであると訴えましたが、今やプロテスタンティズム自体が、形式的な伝統となってしまっていないかを問われているでしょう。今日の私たち自身はどうでしょうか。神の言葉ではなく人間の言葉に服従して来なかったか、主イエスの名を都合よく用いて来なかったか、礼拝が習慣として終始していないか、「こうあるべき」というしきたりに束縛されたり、したりしていないか、聖書にこそ立脚した教会であろうとしてきたか、そのことを問い直すという意味で、宗教改革記念日は今日的な意義があります。
この事を自問すれば、神の御前に恥に満ちた自分しか見いだせないかもしれません。どれだけ神の言葉を無にする生き方をしてきたかと。しかし、それでもここに集まってくるのは、ただここに主の憐れみと招きがあるからです。私たちは礼拝を通して、繰り返し自分自身を取り戻すのです。「にも関わらず」神に愛され、赦されてている自分を知る時、言い訳も、言い逃れも必要もなく、神の前にありのままの罪人であることができるのです。

神聖ローマ帝国において法の保護外に置かれ匿われていたマルティン・ルターが、盟友メランヒトンに送った手紙の一節は有名です。「大胆に罪を犯しなさい。しかし、より大胆にキリストを信じなさい」。
これは、要するに「あなたは神の御前にどこまでも罪人であるのだ」ということです。「罪を犯さないように正しさを装って何もしないのではなく、失敗や過ちを必ず起こしてしまうものであることを恐れず自分に託されている務めを担い果たしなさい」ということです。そのような欠け多き罪人をも「義し」と認め、用いて下さる主を信じ、感謝せよということです(一歩間違うと危険な考え方にもなりますが)。

手を洗わないことが「言い伝え」では罪、汚れだとしても、主イエスはそれを大胆に破りました。主イエスが人々に指し示されたのは、罪人のまま、まるごとを受け入れて下さる神です。失敗や過ちを犯しても、そこで憐れむことをやめない神です。

教会暦では降誕前節です。飼い葉桶という貧しさの中に神がご自身を示されたこと、それは世の片隅で起きた小さく秘かな出来事のようであって、しかし、それは実に大胆な神の愛の決断の出来事でした。「世の罪と過ちの只中にわたしは生きるのだ」との大いなる決断でした。ヨセフもマリアも、決して清いとは言えない、破れを抱えた手、未熟なその手に神の愛を抱いたのでした。そして、私たちも、この主キリストに大胆に近づくことが赦されている、その愛を抱いて生きるよう招かれている一人ひとりです。

福音は、人を束縛する「言い伝え」ではなく、いわば「良い伝え(good news)」です。人を神に向かって自由にする生きた言葉です。宗教改革500年という節目において、わたしたち札幌北光教会は、この福音という「良い伝え」を、欠けを抱えたままでありながらも大胆に語り続けていく(エフェソ6:20)ために集められ養われているということを再確認したいと願います。

前のページに戻る

お問い合わせ北光幼稚園

個人情報保護方針について