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人生は、その人それぞれに固有のものであり、それだからこそ尊いと思います。幸せを感じることに越したことはありませんが、しかし苦難も挫折も含めて、私たち固有の人生は、誰も変わってくれません。ですから、一人の人間の人生は、尊いと同時に、時として残酷だと思います。
なぜ、私ではなく、この人が、なぜ、今、これ程の重荷を背負って生きていかなければならないのか。残酷さに、言葉を失うことがあります。

ある若い体育の男性教師がいました。子供のころから身体を動かすことが得意でした。大学に進学し中学の教員となりました。体育の授業中、熱心に跳び箱の指導をしていた際、誤って頚椎(首)を痛める大怪我をしてしまいます。その事故によって手足が動かなくなりました。その若き体育教員が24歳の時です。2年あまりの、絶望の中、彼は、口に筆を加えて、文字を書くことに挑戦しました。さらに、花の絵を描くようになりました。病床で、キリスト教と出会い、病室で洗礼を受けました。彼が28歳の時です。やがて、彼の描く絵と、言葉は、多くの人の心を動かすものとなりました。「星野富弘さん」という方の話です。その方が、描いた作品にこんな詩があります。

よろこびが集まったよりも / 悲しみが集まった方が / しあわせに近いような気がする
強いものが集まったよりも / 弱いものが集まった方が / 真実に近いような気がする
しあわせが集まったより / ふしあわせが集まった方が / 愛に近いような気がする

残酷なまでにも、若き体育教師の身体の自由を奪った事故、人生に突然おとずれた挫折。誰も変わることのできない悲しみのどん底の中にあって、弱さの中にあって、「星野富弘」さんは、他の誰でもない「星野富弘」という人生を生き、言葉をつむぎ、人間の惨めさ、悲しさ、弱さ、そこに愛があると語るのです。星野富弘さんの作品を見て思うことは、人生で味わう挫折や苦難は、人をしばしば新しく生きることへと導くこともするということです。彼の作品には、諦めではなく、信仰があることを感じます。

ローマの信徒への手紙を書いたパウロ。使徒パウロの人生もまた、順風満帆というよりも、挫折の人生でした。パウロは、ユダヤ教の熱心な信者でした。イエス・キリストを救い主であると信じるユダヤ人達に対して、迫害をします。しかし、そんな迫害の旅の途中で、イエスの呼びかける声を聞き、回心をしました。パウロは、人間として「絶対にはずしてはならないと信じて疑わなかった民族の誇り」、「伝統的な信仰」から見ると、挫折したのです。
また、パウロは、私たちと同じように絶望や不安や憤り、さらには自分の意志には従えない「欲」というものを、抱え、悩んだ人間でした。人間の弱さ、惨めさを、自覚していたのです。

「ローマの信徒への手紙」の第8章では、聖書全体を流れる神の愛とキリストの福音の恵みをあれこれと説明してきたパウロは、神の恵みの圧倒的な力に感極まって、次のように書いています。「死も、命も…、現在のものも、未来のものも…、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(38節〜39節)。

プロテスタント教会の先人たちは、教会の教えを学び、確認し、伝えていくために、多くの書物を残しました。その中に「信仰問答」というものがあります。「問答」という文字通り、問い答えの形式で、聖書の教えを説いているのです。数多くある信仰問答の中に、16世紀に改革派キリスト教会、ドイツで作られた「ハイデルベルク信仰問答」というものがあり、一番目の問いは、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」というものです。この「慰め」と訳された言葉の意味は、私たちの心を置くべき拠り所や確信といった意味合いを持つ言葉です。元の意味からすれば、「生きるにも死ぬにもあなたのただ一つの拠り所は何ですか」。とも言えます。

「わたし」という弱くあてにならない者を、よりどころとするのではなく、私たちは、キリストを通して神のものになることが、確かなよりどころなのです。

この世の中には、悲惨極まりない出来事や、無念の一言でしか周りのものは語りえない不運な出来事、悲しい出来事は沢山あります。試練とか苦難は、神を信じる者にも、神を信じない者の上にも等しく臨むものであります。人生は、その人それぞれに固有のものであり、それだからこそ尊いと思います。人生における無念さや挫折は、諦めや悟りで解決することはできません。あるいは無念さを晴らすという形で、何かに取り組むことにおいてすべてが解決するかといえば、一時、そのような心境に立ったとしても、そこに完全な癒しはありません。本当に無念さを癒してくださるのは、神さま以外にはありません。「信仰問答」はそのことを語っています。

信仰によって生きる私たちは「確かな拠り所」を持っています。「慰め」「癒し」を知っています。私たちの痛みも、苦しみをも、主イエスは、共にいて下さるのです。

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