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ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスは、ガリラヤの有力者たちを招いて、自分の誕生日の祝宴を催しました。その余興において、ヘロデは、妻ヘロディアの娘で少女サロメの求めに応えて、洗礼者ヨハネを殺害してしまいました。その残虐な祝宴について記した後、マルコ福音書は、あの5千人の給食の物語を続けて記すのです。横暴にして残虐な権力者が一人の命を弄び奪った祝宴があった一方で、それとは対照的な、一人一人の命を愛し心を配る神の祝福のもとで、群衆が満たされたもう一つの「祝宴」があったのです。

あいだみつをさんの詩をご紹介します。

「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる うばい合えば争い わけ合えば安らぎ うばい合えば憎しみ わけ合えば喜び うばい合えば不満 わけ合えば感謝 うばい合えば戦争 わけ合えば平和 うばい合えば地獄 わけ合えば極楽」

「うばい合えば足らぬ、わけ合えばあまる」という発想は、主イエスがこの奇跡を通して示されたことと同じ意味でしょう。群衆は様々に重荷を背負い、主イエスの助けを必要とし、まるで飼い主のいない羊のように疲れ、飢えていました。更にその状況に輪をかけるように、日が暮れ闇夜が訪れようとしていました。それを見た弟子たちは、主イエスに「解散宣言」を求めました。日が落ちてからでは帰ることもできない、と群衆のことを思っての言葉なのでしょうけれども、「晩飯まで面倒は見ていられない」という本音が見え隠れします。

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」との主イエスの言葉に、素直に納得できないある弟子は、即座に必要な食糧を金額に換算しました。200デナリオン。そんなお金などあるはずがないのです。群衆たちから掻き集めた食料は、パン5つと魚2匹。弟子たちの「それに魚が2匹です」という言葉には、主イエスに対する嫌味がたっぷり込めているかのようです。この時、弟子たちは忘れていました。主イエスによって町や村に遣わされた時(マルコ6章7〜13節)、自分たちがお金もカバンもなしに、杖一本しか持って行けなかったことを。けれども行く先々で彼らは、自分たちの思いを越えた出会いがあり、宣教の働きを成し遂げることができたのでした。そして、その驚きと感謝に包まれながら、いましがたその杖一本を携えて報告に帰って来たのです。しかし、おびただしい群衆を前に、パン5つ、ついでに魚2匹しかないという現実を前にして、再び心が曇ったのです。

それでも、主の言葉に従い、心配げな顔でパンと魚を分け始めました。それを受け取った人も最初は、「彼らは何を始めたのか」と怪訝な表情であったことでしょう。けれども、そうやって皆が満たされる驚くべき光景を目の当たりにしたのでした。弟子たちが、「馬鹿らしい」といって配ることを拒否したならば、当然に何も起こり得ませんでした。それらを配るという聖なる愚かさに踏み込んだ時、そこでこそ見ることのできる御業があるのだということです。権力者ヘロデの催した贅沢な食事に対して主イエスを中心として互いに分かち合ったパンと魚の食事、メニューは、天と地ほどにかけ離れていたかもしれませんが、まことに天に近い食卓がどちらであったかは言うまでもありません。

同じく、私たちの現実においても、たとえ十分なものは無くとも、主イエスがここにおられるということを確かめる時、私たちは神の国の光景を目撃できるのです。私たちは頭でまず結果を見積もってしまいます。しかしその見積もりに囚われてしまうならば、その範囲でしか御業を感じられなくなってしまうのではないでしょうか。このくらいにしておこうという思い、あるいはこんなことに何の意味があるのだろうか、あるいはなんで自分がという思い、既に自分の中で見積もって、答えを持ってしまっている時、私たちは奇跡に、主の御業に参与することは難しいのです。神様はお金を増やす奇跡は起こされませんが、実に互いに分けあい担い合うという奇跡を起こされるのです。

最初から計算し、最初から相手を選り好のみ、最初から意味がない、面倒だ、深入りしないように、傷つかないように、と答えを出してしまうのではなく、主の言葉に押されて踏み出してみる時、予想だにしなかった恵みを私たちは見るものとされるのです。

主イエスは、十字架で自らの命をパンとして私たちに裂いて分け与えて下さいました。「誰もお願いしたわけではないのに十字架に掛かって死んで罪を贖った?」「そんなバカな!」「神が神であることを捨てて人となった?」「裁く神であるはずが、この世に裁かれた?」「情けない」。十字架とはこの世の価値観では全く愚かです。そう、そこに計算などないからです。愚直なまでの神の愛が秘められているのです。受難節が始まります。主の尽きることのない愛、主の限りなく深い赦しの中を旅していく豊かな受難節としていきましょう。

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