札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光

日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

札幌北光教会/トップお問い合わせ
札幌北光教会/トップキリストの招き平和宣言過去の信仰告白オルガン結婚式・葬儀アクセスマップfacebook
教会案内礼拝案内集会案内牧師紹介/説教納骨堂/クリプト北光貸し会議室

>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >口利きは利口か


アドヴェントは「待ち望む」時だと言われます。しかし、12月25日を待ち望むのではありません。かつて世に来られたキリストが、「再び私は来る」と約束されたその日その時を待ち望むのです。人生を完成させ、歴史を完成させるのは、他でもなく主であることに畏れと希望を抱きつつ生きていくのです。
救い主の到来を告げ、その道備えの役を担った洗礼者ヨハネ。彼の叫びは決して過去のものではありません。「十字架を担い、陰府に下り、復活して天に昇られた主の足音が、あなたを訪れようとしている、神様がその御業を完成しようとしておられる」。その主の愛の迫りを告げる叫び声は、今こそ私たちの内に響いています。

ザカリアは、人生における最初で最後の光栄ある香焚きの務めに当たっていた時、天使ガブリエルの託宣を受けました。老齢の自分に子が生まれること、その子が預言者エリヤの如き働きをし、人々が待ち続ける救い主到来の道備えをする。どれもこれも現実離れした話でした。戸惑いの中、ザカリアが口にする事の出来た言葉は、ただ一言「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか」でした。彼が天使の告げた神様の約束が納得できるよう証拠を求めたのは、無理からぬ話です。しかし、その一言こそ、この後沈黙を強いられる決定的な一言でした。自分の理解の尺度で神の言葉と御業を判断しようとしたのです。そもそも人間の思いを超えた神の御業を理解しようとすること自体が的外れで、それは理解されるものでなく、信じられるもの、待ち望まれるものです。

天使がザカリアに告げたのは、「喜ばしい知らせ」(19節)でした。つまりグッドニュース(福音)です。それは息子ヨハネの誕生に留まらず、救い主の到来という告知でした。
この福音とは、神様がこの世を救おうと決意された表明です。キリストの誕生は、「あなたがどうしても大切なのだ」という神の愛の決意そのものです。この決意は、左右されず、また取り消されることもありません。それは人間が納得する・しないの問題ではなく、否定できない現実です。ならば、人間の問題とは、キリスト降誕に示された愛を神が終わりまで貫いて、人生を、世の歴史を完成してくださるその時を待ち望みながら今日を生きるかどうかです。

沈黙を強いられたザカリアは、妻の出産を通して、人の思いや言葉を妨げとはせず進められる御業の神秘を目撃しました。御業は、誰か特別に権威ある人の口利きを必要とはしないどころか、むしろ如何なるこの世の権威も、知恵ある言葉も小さくされるのです。キリストの誕生の出来事は、たとえ宿屋に泊まる部屋がなかろうと、ボロボロの飼い葉桶しかなかろうと、実現されたのです。そこに表明された神の愛は、人間には「理解」できません。

「口が利く」と書いて「利口」。モーセが神様に召し出された時に言いました「ああ主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです」(出エジプト記4章10節)。しかし、神様はモーセに告げました。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにするのか。主なるわたしではないか。さぁ行け。このわたしがあなたの口と共にあって、語るべきことを教えよう。」
「主なるわたし自身が、あなたに語るべき言葉を与える」というのです。本当の「利口」とは、自分の言葉がどこから発せられているものかを弁えているということです。その言葉が全く自分の思いから発せられているのか、それとも神様が語らせて下さっている言葉であるかです。
沈黙から解き放たれたザカリアの口に溢れた言葉は、「ザカリアの預言」(ルカ1章67節以下)と呼ばれます。彼は、10か月間に蓄積された自分の思いを一挙に語ったのではなくて、神様が語らせて下さった言葉としての「預言」を語ったのです。
同じく、私たちは預言者であることが求められています。人の思いで溢れ、騒がしいこの時代の中で、神様の溢れる思いを深く受け止めましょう。人間の思いを基準にした言葉ではなく、神様の愛を基準とした言葉を語りだしていくことをこそ追い求めましょう。

前のページに戻る

お問い合わせ北光幼稚園

個人情報保護方針について