札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光

日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

札幌北光教会/トップお問い合わせ
札幌北光教会/トップキリストの招き平和宣言過去の信仰告白オルガン結婚式・葬儀アクセスマップfacebook
教会案内礼拝案内集会案内牧師紹介/説教納骨堂/クリプト北光貸し会議室

>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >目を覚まして、わたしたちは待つ


腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」(35節)主人を迎えるために、僕たちが目を覚まして待つことは最もな話ですが、続く展開は意外です。「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯をしめて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」(37節)帰って来た主人自らが給仕してくれるというのです。立場が全く逆ではありませんか。しかしそれは、「はっきり言っておく」(アーメン)と念押しされるほどに揺るがないことなのです。かつて仕えられるためにではなく、仕えるために来られた主イエスが、再び仕える方として来られるのです。それほどまでに私という存在が愛され尊ばれているのだということを当の私たちは、何と忘れやすいことでしょう。しかし、やがて天の祝宴の席に着かせて頂くその時にこそ、自分がいかに愛されてきた者であるかを最もはっきりと、最も深く知ることになるのでしょう。

「思い悩むな。ただ神の国を求めなさい。」(31節)「小さな群れよ、恐れるなあなたがたの父は喜んで神の国を下さる。」(32節)そのように主イエスは繰り返し、神の国が喜びをもって備えられていることを教えて下さいました。この安心を胸に留めながら眠りこけてしまうのではなくて、むしろ目を覚まして、その時を待ち望む今日を精一杯生きよと求められています。

先日、平岸墓所で墓前礼拝が行われました。墓前にて、私たちが思い起こすべきことは、神がイエスを復活させられたということ、すなわち死をも打ち破る神の愛の現実です。その愛に感謝しつつ一人の姉妹の納骨をいたしました。納骨とは、ただ単に、暗く寂しい墓の中に遺骨を納めることではありません。「もう一度、わたしは来る」と約束された主イエスの再臨という希望の中にその人を委ね納める営みです。主イエスのこの約束がなければ、どんな立派なお墓も、どんな盛大な墓前での集いも空しいのです。

では、再臨はいつか。ルカによる福音書が記されたのは紀元80〜90年頃、既にその約束に対する不安、疑いは深刻なものとなっていました。イエスの昇天から50〜60年が経過し、次世代に信仰が受け継がれようとしている頃、人々の信仰は揺らいでいたのです。45節以下に、主人の帰りは遅れると勝手に考え、主人の家で僕たちがすっかり堕落してしまう様子が語られています。これは、「主の再臨などない」「そのようなことは架空だ、神話だ」と決めて、もはや人間が、教会の主に成り代わっていってしまう傲慢と倒錯に対する鋭い問い掛けです。

私たちは「マラナ・タ」(主よ、来て下さい)と、主を待ち望む生活が私たちの中でどれほど営まれているでしょうか。私たちは、主の帰りを待って目を覚ましているからこそ、その目で愛すべき隣人を知り大切にする生活を過ごすことができるのでしょう。また、主の帰りを待って、ともし火を灯しているからこそ、その火は世を覆う闇を照らし、「然を然り」「否を否」として毅然と向き合う生活をなすことができるのです。

御国を来らせたもう主が来られる、この約束が欺かれることは決してないと信じて待ち望む、感謝して待ち望むからこそ、その生活の中で、愛すること、赦すこと、忍耐することに、たとえ何度躓いても、倦むことなくこれを志し続けて生きていくことができるのです。

前のページに戻る

お問い合わせ北光幼稚園

個人情報保護方針について