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37節でイエスは、「裁くな」「罪人と決めるな」「赦しなさい」と命じます。ところが、これらは全部私たちの苦手なことです。また、与えなさいと言います。これも苦手です。イエスはどうしてこんな難しいことを要求するのでしょうか。

その説明として39節からは、盲人の道案内の話がでてきますが、このたとえは誤解されやすいところです。ここでイエスが言いたかったのは、悲しみや貧しさというものが、悲しみを再生産するということです。貧しさが放置されるときに、あらたな悲劇を生むというこの世界の有様を指摘しているのだと考えられます。

現代の日本の子どもを巡る状況でも、「貧困格差」ということばが使われるようになっています。貧困が子どもたちの成長を阻害しているのです。貧しい家庭に育つ子どもは、学力、健康、家庭環境、非行、虐待などさまざまな面で、そうでない子どもに比べて不利な立場にあり、それが子どもたちから成長の機会を奪っているのです。まさに「悲しみの連鎖」とでも呼ぶべき人間の現実があるのです。

そして、それは私たちが罪に縛られているしるしでもあります。私たちはどうにかして人を裁かないで生きられるか、赦して生きられるかとあがけばあがくほど、それが難しいことであるという自分の現実を知らされます。だからイエスは「弟子は師にまされない」と言い、「必要なのは、修行を積むこと」と語ったのです。

その「修行」の内容を示すのが、目の中にあるおが屑と丸太のたとえなのです。

このたとえは、とてもインパクトがあるけれど、現実的な話ではありません。自分の目に「丸太」が入るわけはないのです。そんなものがあったら、丸太に目をふさがれて、何も見えないに違いありません。

イエスがここで指摘しているのは、実はそのことではないでしょうか。「丸太に目をふさがれて」本当に見るべきものを見えていないというのが私たちの現実の姿なのです。

何を見ていないというのでしょうか。それは神に愛され、赦されているということです。大きな罪を犯しているのに、神は私たちを裁かず、罪人としないで、赦してくださっているのです。それどころか、守り、恵み、導き、愛してくださっています。それが見えていないというのです。

あなたの目の中にある大きな丸太を取っ払い、神の愛をまっすぐに見つめなさいとイエスは言いたかったに違いありません。自分がすでに赦され、愛されていることがわかったその時に、わたしたちは「他の人の目の中にあるおが屑を取り除く」すなわち「赦す」ことが可能になるのです。

赦すということは、簡単なことではない。心の傷は深く、癒やしがたいものです。だからこそ、赦しは厳粛な決意なしにはできないのです。イエスの愛の前に、赦されているものとしてこの世界を生きるという決意こそが赦しの第1歩なのです。

あなたの目から丸太を取り除きなさい。そして私を見なさいと、十字架を担ぎながらイエスは祈っておられたに違いありません。人の悲しみの連鎖を断ち切れるものが私たちにあたえられているのです。それがイエスの十字架です。十字架を見上げながら、厳粛な決意を持ってあらたな一歩を踏み出そうではありませんか。

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