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「イエスは悪魔から誘惑を受けるために霊に導かれて荒れ野に行かれた」この箇所は、いわば主イエスの生涯全体を象徴している物語なのかもしれません。40日間の断食、それはかつてモーセに導かれてイスラエルの民が荒れ野を40年放浪した末に、約束の地カナンへと導かれたことを想起させると共に、主イエスが人々を約束の地、神の国へと導かれたことを物語っています。

断食の末、極限まで衰弱したところに、ようやく誘惑する者が現れて言いました。「お前は神の子なのだから、その力を多少は自分のために用いても良いだろう、そんなに苦しいならば、足元の石をパンに変えて頬張れば良いではないか」と。それは十字架上のイエスにかけられた罵りの言葉と同質です。「神の子なら自分を救ってみろ」。

これに対してイエスは答えました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。イエスは人が一体何によって「生きている」という生き甲斐や幸福を得られるのかを問います。それは、自分の力だけで幸福になれると、神である方から独立することによってではなく、日々示される一つ一つの神の言葉によってなのだ、と。もし、石をパンに変えるならば、あの五千人が互いにパンを分かち合う必要などなかったでしょう。主イエスならば、パンを買うお金を増やすことも、石ころをパンにすることも出来たかもしれません。しかしそうした物質的充足や、経済的豊かさに、奇跡と呼ぶべき御業はないのです。皆が「主イエスの言葉に従って」、「互いに分かち合った」生き方こそ奇跡であり、そこに生きている喜びがあるのです。

悪魔は、神殿の高みから飛び降りるように求めました。「大丈夫。だって、お前のいう神の言葉(聖書)には『あなたの足が石に打ち当たらないように、守ってくれる(詩編91:12)』と書いてあるじゃないか」と。悪魔は実に聖書の専門家です。

私たちも、聖書の言葉を、神を試みる道具として誤って用いてしまうことがないでしょうか。「『神は共におられる』と、もう飽きるほど教えられてきたけれど、その証拠を見せてくれ」「低みに立って仕えて下さる神なら、今この時こそ仕えて欲しい」と。福音を自分に都合よく解してしまう時、私たちは神(GOD)を、人の言いなりになる犬(DOG)に貶めてしまっています。神の言葉は、人間によって「実験」されるものではありません。み言葉は、ただ御心のままに「実践」されるものです。私たちは、御心のままに成し遂げられるみ言葉の中で今日を生かされていることを、恵みとして受け止めなければならないのです。

三度目の決定的な誘惑の言葉で悪魔はイエスに迫ります。「もし、ひれ伏して私を拝むなら、この世界の繁栄をすべてプレゼントしよう」と。そう執拗に誘う悪魔の姿はどこにも見えません。なぜならその実態は、主イエスの眼下に広がるこの世の栄華そのものだからです。つまり、この世の栄華をこそ神とせよというのです。この福音書が書かれた時代、既にエルサレム神殿は破壊されてありませんでした。この滅亡の背景には、ローマ帝国による支配と抑圧があり、またそれに媚びへつらうユダヤ教宗教権力者たちの貧しい民からの搾取によって築かれた繁栄がありました。世の権力に包摂され、いや一致協力して繁栄を手に入れんとする誘いに惑わされた結果が、神殿の崩壊でした。神殿は崩れても、なおその誘惑は巧みに私たちの人生の荒れ野中で忍び寄ってくるのです。かつて戦時下の教会が、神ならぬものを神として妥協・協力したと同じような誘惑の中に、再び立たされているように思います。

人は自分の心を空き家のままにすることはできません。何かしらのものを自分の主人として迎えこれに仕えています。権力、富、名誉…。そのような神ならぬ神でこの世は溢れています。

それらこそ最も頼りがいがありそうで、しかしその実、最も頼りないものです。

主イエスは「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と告げました。妥協し譲ってしまってはならない信仰があります。「退け」と言うだけでなく、真の神を拝み、そして仕えていく必要もまた示されています。

イエスは、誘惑と闘う日々の中で、繰り返し「神こそ真実である」とその信頼を告白し、身をもってその真実な神を証しされました。神の言葉によってこそ生き、神の御心に委ね、神にこそ仕えて生きたその歩みは、十字架の凄惨な死に至りました。しかし、それは敗北だったのでしょうか。

十字架上のイエスに祭司長、律法学者たちは、「今すぐ、十字架から降るが良い、そうすれば信じてやろう」と言いました。こうして主を試みる人間に対し、主イエスは十字架から抜け出て見せることで、神の子であることを証明されはしませんでした。かえって己に固執せず、己を無にし、死に至るまで御心に従順であることによってご自身を証しされたのです。それは決して、敗北ではなく、御心を生きたという勝利です。それが勝利である証しこそ、死を越えた復活という出来事です。

受難節の日々、「私は既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と告げられた主イエスの道に従いつつ、私たちもまた「主こそ真実」との御心への信頼をこの荒野で告白しつつ、またその真実を確かめながら歩んで参りましょう。

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