札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光

日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

札幌北光教会/トップお問い合わせ
札幌北光教会/トップキリストの招き平和宣言過去の信仰告白オルガン結婚式・葬儀アクセスマップfacebook
教会案内礼拝案内集会案内牧師紹介/説教納骨堂/クリプト北光貸し会議室

>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >本当に、この人は神の子だった


弟子たちとの過越しの食事(主の晩餐)の後、ゲッセマネの園で主イエスは逮捕されました。そのまま最高法院で即決裁判が行われ、夜明け頃、総督ピラトによる尋問の末、死刑が下され、午前9時に執行されました。数時間でこれだけの出来事が実に首尾よく物事が進みました。某学園の「忖度」ではありませんが、ある意味でまさに神の風がそこには吹いていたと言えるでしょう。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(箴言19章21節)を想います。人間の多くの計らいがことごとく成功していったように見えて、まさにそこで計らずも、神のみ旨こそが実現していったのです。

人間の側は、その手に主イエスに対する憎しみを込めて十字架を立てました。しかし、そこで神は、憎しみに満ちた手を憐れみで覆うようにして十字架を立てられたのです。十字架のもとで両者の手は一つに結ばれたのです。わたしたちは、こうして礼拝堂で十字架を前にする度に、自らの手が主を拒み続けてきた罪を思い起こすと共に、しかし、主がその御手で、私たちを覆って下さった赦しの深さに触れるのです。

札幌北光教会の十字架には、イエス・キリストの姿(像)はありません。キリストの姿がない十字架が表しているのは、「この方はもはや十字架の上にはおられない」ということ、すなわち復活をも表していると言えます。キリストは、今日もなお十字架に掛けられたままなのではなく、私たちのただ中に、私たちの主として生きておられます。

弟子の母親が言いました。「王座にお着きになる時は、わたしの二人の息子を右と左に座らせてください!」(マタイ20章21節)。十字架の罪状書きに、「ユダヤ人の『王』イエス」と、中傷が書かれていましたが、王の右と左の座に着いたのは、罪人たちでありました。罪人たちの真ん中に、主イエスがいて下さったということです。そして今日も、私たちのただ中にいて下さるのです。復活のキリストを中心として、私たちはこの方の右に、左に招かれ、結ばれ、生かされている、それがキリストの体としての教会という群れです。

十字架上のイエスに対し、祭司長も律法学者も侮辱しました。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架を降りるがいい。そうすれば信じてやろう。」苦しむ主イエスの姿を見上げながら、勝ち誇り満面の笑みを浮かべて語る侮辱の言葉が浴びせかけられました。主を侮り、試す、人間の罪が絶頂に達しているところです。高らかに「我々の勝ちだ」と勝利が宣言されているようなところです。しかし、そこで、神の愛こそが絶頂に達していたのです。「他人は救っても、自分は救えないのか」。この嘲りは、実に主イエスという方を言い当てています。主イエスとはまさしく「他人を救い、自分を救わない」方だからです。

自分を満たし、自己実現のために主イエスは、ご自分の力を用いはしませんでした。「神に見捨てられた」と叫び呻く者に対して、「自分を救え」などとは絶対に語りませんでした。自分のためではなく、ただその力と命を他者のために、向こう見ずなまでに用いて下さった方です。「他人は救ったのに、自分は救わない」、ここに私たちの救いがあります。

「本当に、この人は神の子だった」。十字架のもとで、兵士がつぶやいた小さな告白の言葉は、遅きに失してしまった者の告白ではなく、そこからがまさに始まりでした。私たちすべてのものにとっての新しいスタートがここにあります。

大声で叫び、息を引き取った時、神殿の垂れ幕が、岩が、墓が「裂かれ」「開かれ」ました。それは開かれるはずのないものが開かれたということです。これまで全く閉ざされていたもの、すなわち、神と私たちの間にあった揺るぎなく、ぶ厚い隔てが、イエスの叫びによって、取り払われたということです。主イエスの絶叫と死は、終わりを告げるものではなく、私たちが神に出会っていく始まり、幕開けを告げるものでありました。
「あなたもそこにいたのか」(讃美歌21-306)。「あなたもそこにいた、そこで主に覚えられ、担われていた」。時と空間を越えて、私たちも十字架のもとにいます。そして、今日、同じ十字架のもとにいたあの兵士の言葉は、決して過去のものではなく、私たちの中で生きた告白となっているのです。

前のページに戻る

お問い合わせ北光幼稚園

個人情報保護方針について