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「イエスとは一体、何者なのか、まことにメシアか否か」ユダヤ人の間で意見が分かれていました。ある時、ユダヤ人たちはイエスを取り囲んで問いました。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」(10章24節)と。
主イエスとしては、これまで何度もご自分を証しして来られたのですが、人々がその言葉に納得することはなく、かえって疑いや反発を強めるばかりだったのです。当時、自分こそメシアだという人は何人もいたのです。
信じることは、納得することとは違います。しかし、「納得できなければ信じられるものか」とも思います。あのトマスにしても、納得しなければイエスの復活など信じられないと思いました。けれどもそんな彼が「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)と告白するに至ったのは、自分の一切がこの方によって知られ、赦されているという愛の事実を知ったからでした。あるいはペトロが、網を捨てて従ったのは、イエスという方に納得したからではないはずです。自分の知識や経験を象徴する「網」を捨てて、ただ主の存在に捕えられたということです。

さて、主イエスは、ご自分を羊飼いにたとえながら、はっきりと、最も平易な言葉で証しされました。
@羊飼いイエスは、羊たちの名を呼ぶ方です。そして、羊たちは、自分の名が呼ばれたからついていくのではなく、あるいは羊飼いの姿形を見てついていくのでもなく、呼び掛ける声が自分の「飼い主の声」であるか否かを聞き分けてからついていくというのです。放牧される羊たちが、はぐれることがないのは、自分たちを心にかけ、先頭に立って導く羊飼いの声を聞き分けるからです。
盗人や強盗は、むりやり縄を掛けて捕まえる場合もあれば、やさしく呼び掛け、餌をちらつかせながら、連れ去っていきます。この世には、そのようにして羊飼いから引き離す力が溢れていないでしょうか。「別にキリストなど信じなくても充実した生活ができる」と考えたり、「お金や地位や名誉がある方が、よっぽど自分らしい素敵な生き方ができる」と考えたり。しかし、羊は、それが本当に従うべき羊飼いなのか、それとも盗人なのかを、その見える姿形ではなく、その声で聞き分けます。羊は、羊飼いの声を身に覚えています。その声は、自分が生まれた時から、いや生まれる前からいつも自分に呼び掛けてきた声だからです。存在の中にその声が染み込んでいるのです。
無教会主義を提唱した内村鑑三は、「彼はほえたまわず。ささやきたもう。静寂の中に細き声を聞きて、われらはそのまことに神の声なるを知るなり。」あるいは「人は楽園にありて、人の声に耳を傾けて神に聞かんとしない。されども、エリアのごとくにひとりホレブの荒野にさまよいて、あざやかに神の静かなる細き声を聞き取ることができるのである」と言いました(『一日一生』より)。あざやかに神の静かなる細き声を聞く。人の命令や、社会の要求によってではなく、この声によってのみ人は動かねばならないと言うのです。

主を信じるとは、納得することではありません。この私を呼び、この私を包む方の、あざやかに静かなその声に身を置くことです。たとえ死の谷の陰を歩む時も、羊飼いなる主の声を感じようとすることです。

次に主イエスは、ご自分のことを「私は羊の門である」とはっきり言われました。一体、主イエスとは、門なのか、羊飼いなのか、混乱しそうですが、こういう解釈があります。当時、羊たちを一カ所に集めておく囲いの出入り口に門扉がなく、そのままでは、逃げ出す羊や、狼や泥棒が入ってくるかもしれません。そこで羊飼い自ら門となって、羊たちを夜通し見守るのです。朝、羊を柵から出すときには、羊飼いは入り口で仰向けになり、羊が自分の上を越えていくのを下から見ながら、弱って越えられない羊がいないかを調べるとか。羊飼いでもあり、羊の門でもあるということです。

その羊飼いも、雇われ羊飼いならば、報酬に見合わない仕事はしないのです。狼が襲ってきたときには、リスクを負いたくないので、一目散に逃げ去ってしまうのです。しかし、主イエスは、自らをここで「良い羊飼いである」と言われました。それは、羊のために命を捨てるという一点において「良い」と言われるのです。羊の命のために、自分の命を捨てるのは、羊飼いにとって、羊たちが自分の命そのものだからです。主イエス・キリストにとって、私たちの命は、ご自分の命そのものなのです。

その愛は死をも克服する完全な愛です。「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。」(18節) 復活とは、単に死人が生き返ったというサプライズショーではありません。キリストは、死んだり生き返ったりできる方だということではなく、絶対と思われる死さえも、神が神であり、私たちを愛する愛を損なうことはできないのだという事実、それがキリストの復活であり、この神の愛を喜び祝うのが日曜日の朝です。

「お前は何者か、はっきり言え」との問いに対する、最大の答えは十字架の死であり復活でした。ここに真の羊飼いであるキリストが示されたのです。
羊のために命を掛けて、死をもってしても再び立ち上がり、決して見捨てず、決して見失わない一人の羊飼い、この方のあざやかに静かなる細き声を私たちは生活の中に常に聞き続けて歩むのです。

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