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童謡『ぞうさん』は、だれしも一度は歌ったことがあるか、聞いた事があるものです。1番の歌詞は、「ぞうさん ぞうさん おはながながいのね そうよ かあさんも ながいのよ」です。この歌詞には、2つの登場者がいます。まず、「ぞうさん ぞうさん おはながながいのね」と言う人物。次に、「そうよ かあさんも ながいのよ」応えるぞうさんです。この詩を作られた「まどみちお」さんいわく、前者は象以外の動物が、象を見て、長い鼻を馬鹿にしているのだそうです。しかしぞうさんは、まるで長い鼻を褒められて嬉しく思っているかのように、「そうよ かあさんも ながいのよ」と応えました。ぞうさんがこのように応えられた理由は、まどみちおさんの著書で、「この象が、かねがねゾウとして生かされていることを素晴らしいことだと思い幸せに思い有難がっているからです。誇りに思っているからです。」と言われています。

使徒言行録20章17節以下では、パウロがエルサレムへの旅行に際して、教会の長老たちへ訣別説教をしています。この旅行の目的は、エルサレムのキリスト教会へ献金を渡すための旅行のようです(ローマ15:25〜28)。エルサレムにはイエス様を救い主とは認めないユダヤ人が大多数を占めていたでしょうから、パウロは、ユダヤ人との衝突は避けられないことは簡単に想像が付いていました。パウロはかつてサウロの名前であったとき、キリスト信仰を持つ人々を迫害する側に立っていました。しかし何とも神秘的な回心体験を経て、今では、キリスト信仰を否定するどころか逆にキリスト信仰を宣べ伝える側になり、キリスト者を迫害する者の一人から今度は、ユダヤ人から迫害される者の一人になりました。パウロは、自分が伝道のためにこれまで訪れた土地は、聖霊の導きによる者だと言いました。聖霊に促されて(22節)、という言葉は厳密に訳せば、聖霊に「縛られて」となります。縛られてという表現は、ユダヤ教の教師ラビたちの間でよく使われた言い回しのようです。縛るとは、禁止を意味しています。パウロの歩みのすべては、もはや自分自身のやりたいことはすべて聖霊によって禁じられて、聖霊が導くままに伝道に務めていました。その旅路は、楽で平坦な道のりではありませんでした。ですが、パウロがこれまでに伝道旅行で赴いた土地で経験した苦難や投獄は、彼自身が言っているように、すべてが聖霊に縛られて行った先で起こったことです。それはつまり、どんなにパウロを苦しめようと人々が働きかけても、いつでも神様がパウロとともにいたということ、伝道旅行のすべてに神様の守りと支えがあったこと、キリスト伝道の最中に受ける迫害も、自分がキリスト信仰を持っているから、そしてその信仰が広まりつつあるから起こる迫害なのだということです。

かつて、イエス様が十字架刑に処せられているとき、罪状が書かれた札には、「ユダヤ人の王であるナザレのイエス」とありました。後の世代の人々は、その罪状書きをむしろ「イエス様がユダヤ人の王であることが認められた、栄誉あることだ」と解釈し直しました。また、茨の冠も、拷問の道具ではなく、まさに王様が身に着ける冠であり、イエス様が受けるべき栄光の象徴であると理解したのでした。このことは、苦難や逆境と重ね合わせられている神様の愛と恵みの業といえるでしょう。パウロにとっては、危険な伝道旅行そのものが神様の救いの計画でありました。それはまるで、長い鼻をからかわれたぞうさんが、その言葉を褒め言葉と受け取って誇ったように。

私たちはパウロと同じように、母親の胎内にいるときから神様によって救いへと選び出されています(ガラテアヤ1:15)。そして、私たちはそれぞれ自分にしかない個性を持っています。みんなそれぞれ違うからこそ、人生の歩みもそれぞれに違います。神様との出会いもまた人それぞれです。ですから、神様は一人一人との関わりの中で、救い主を人生の定めた時に与えて下さるのです。私たちは、幸せなことばかりの歩みではありません。時に打ちのめされてしまうような不幸に立たされる時もあります。しかし、その時でさえも、神様が共にいて、関わって下さっている、そのことを支えとして、これからの歩みを進めていきたいと思います。

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