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イエスが引きつけを起こしている子どもから、汚れた霊を叱りつけ、追い出し、子どもを癒やしたことを見ていた人たちが全て、神の偉大さに心打たれ、驚いていました。そんな様子を見て、弟子たちは有頂天になったに違いないのです。

そこで、このタイミングでイエスはあえて弟子たちに向かって「この言葉を良く耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている」語られました。ところが、弟子たちは、この言葉が判らなかったと聖書は言います。言葉は判っているのですが、その意味するところが全く判らなかったのです。というより理解しようとしなかったのです。ここに人間の哀しさがあると思うのです。

聖書はその理由を「彼らには、隠されていた」と書いています。そして、もう一つ、怖くて尋ねられなかったというのです。

弟子たちは、うすうす、とんでもないことが起こるということを感じているのですが、それを怖くて確かめられなかったのです。そんなことが私たちの人生の中でもあるのではないでしょうか。

この時、イエスは十字架を考えながら、一心にエルサレムへ向かう旅をしています。助けを求める祈りがほとばしるような歩みだったに違いありません。それは誰から見ても、何かを感じさせたに違いないのです。

ところが、その同じ歩みをしている弟子たち、イエスの姿を一番近くで見ていた弟子たち、そしてイエスの話を一番たくさん聞いてきた弟子たちは、何を考えていたのでしょうか。「誰が一番偉いか」ということで、「議論が起きた」ということですから、あろうことかイエスの目の前で、そのことで言い争いが起こったというのです。情けなくなるような弟子たちの姿です。

本当に確認しなければならないことに心をふさぎ、十字架に向かうイエスの目前で「誰が偉いか」で言い争っている…悲しい人間の姿が描かれています。

その弟子たちのためにイエスは何をされたのでしょうか。一人の子どもの手を取って、自分のそばに立たせるのです。イエスの弟子にとって、誰が偉いかということは、誰がイエスの近くに座るかということと同義だったでしょう。イエスは弟子の誰よりも自分の近くに子どもをおかれたのです。

当時は、子どもは一人の人間とは考えられていなかったのです。大人の出世争いからすると、認められていない存在であり、忘れられている存在なのです。だから誰が偉いのかと出世争いをしているときには弟子たちには、小さきものはこどもは見えないのです。でもかれらは確実に、すぐそこに存在していたのです。

こどもを受け入れるということは、子どもに親切に優しくしなさいということではないのです。生きる姿勢を変えるということなのです。

イエスは「この子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのであり、神を受け入れることなのだ」と仰いました。誰が偉いではなく、子どものように小さくなること、それを自分の生き方として受け入れなさいと言われたのです。

イエスは「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」と仰いましたが、この集団の中でもっとも小さい者とは誰のことを指しているのでしょうか。間違いなく、最も小さな者は、愚かで情けない姿を露呈している弟子たちのために、その弟子たちを愛し抜くために十字架の道を歩んでいるイエス・キリストです。

イエスが誰が一番偉いかで争っている弟子たちに、子どもを見せられたのは、そのことで小さくなり、他者に仕えて生きるイエスの生涯を思い起こさせるためだったのです。

他人を支配し、利用することをめざす生き方ではなく、愛することを喜びとする、受け入れることを目標とするそういう生き方。そしてイエスが示して下さった生き方こそ、私たちに本当の生きる喜びを与えてくれるのです。

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