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使徒パウロは厳格なユダヤ教徒家庭に育ちました。幼い頃から、神様についてよく学び、ユダヤ教のなかでも特に厳格なファリサイ派に属していたのです。ユダヤ教のラビ(教師)になることを志して、エルサレムで修行を積んだ人でした。ある時、そんなパウロの耳に一人の男の噂話が入ってきます。その男はナザレ村出身のイエスという人でした。このイエスはパウロが信じていた事柄と正反対の教えを人々にしていたのです。例えば、パウロが「律法を誠実に守ることで、人は神の救いに預かれる」と信じていたのに対して、イエスは「人間が努力をして神に救われるのではなく、神のほうからわたしたちに歩み寄ってくださるお方なのだ」と宣言していました。パウロにとっては、律法は神がユダヤ人に与えた厳格な規定であり、救いの約束なのです。ましてや、十字架で殺されたような罪人が救い主であるなどと許せるわけがありません。そのようなことを通して、キリスト教を迫害する者としてパウロは活動を始めます。

しかし、パウロには一つ気がかりなことがありました。捕らえたキリスト者たちは、自分の命がこれから殺されるかもしれないという状況の中にあって、なおイエスという男の生き様について語ったのです。そこまでして彼らが信じるイエスという男の生き様が非常に気がかりでした。

聖書には、突然、天からの光がパウロの周りを照らしたと記されています。ダマスコで起こった突然のイエス?キリストからの呼びかけ、イエス?キリストとの出会いはパウロにとって自分の信じてきたものが全て打ち砕かれた経験でした。自分が迫害していたイエスこそ、神であったということ。そして、神であるイエスが、十字架について死んだという衝撃。まさに、神が人間のために命を差し出して下さったことの現れであり、神が人間に近づいて来られたという証明であったのです。これまでの信仰が覆されるような衝撃でありましたから、パウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかったとあります。

1995年1月17日。6434人の人が命を落とした、阪神淡路大震災から20年が経ちました。震災が起こったのは朝の5時46分でした。まだ眠っていた人、台所で朝食の準備をしていた人‥それぞれに新しい朝を迎えようとしていました。当たり前に歩み出すはずであったのが一瞬にして、日常を奪われていったのです。わたしは4年前の2011年3月11日の東日本大震災の時、約一ヶ月間石巻栄光教会で夏期伝道として教会に住み込みながら、ボランティアと教会での奉仕をしていました。そこで出会った教会員の方が震災について涙を流しながら語った言葉があります。「地震が起こる1分前に戻りたい。あの時は、まだみんな生きていた。どうして神様はあの時助けてくれなかったんだと思う。悔しくて、悔しくて、亡くなった人たちのことを思うといたたまれない‥。けれど、震災があって、全国から沢山のボランティアの人たちが来てくれ、祈ってくれて、本当に励まされた。辛いけれど、生きていこうと思う。」と語られたのです。この方が大切にしてきた友人や家族。思い出や、町並みが崩されてしまった。けれども、災害の悲惨さの中にあって、誰かが自分たちのために祈り、働いてくれることに励ましを受けたと言うのです。生きていこうと思えるようになったとおっしゃったのです。そこには確かに悲しみがあります。けれど、わたしたちの信じる神は、悲しみを悲しみのままにされません。痛みのなかに取り残されない神なのです。神はいないかのように思えた、けれども、傷つき嘆くものに助け手を与えて下さるのです。

パウロの召命も、「大切なものを失った」出来事でした。自分の培ってきた生きる糧や、拠り所が打ち砕かれていくことを体験したのです。今までの生き方が根底から覆されたといっても良いでしょう。神はそんなパウロを絶望のままにはしておきませんでした。そこに、神はアナニアという人を遣わしたのです。

この人は、当時のユダヤ人キリスト者の中心的な人物で、人々から大変尊敬をされていた人です。この数日間、迫害者から逃れるためにはどうしたら良いだろうかと考えて過ごしていたのです。何がアナニアを突き動かしたでしょうか。それは、神が言った大切な言葉です。「わたしが選んだ器である。」

パウロが素晴らしかったから神は選んだのではありません。正しかったから選んだのではないのです。わたしたちも同じです。わたしたちは、優れていたから神に選ばれたのではありません。わたしたちが、信仰深かったから神に選ばれたのでもありません。むしろ、自分が一番よく知っているように、わたしたちの心のなかには、自己中心的な思いがあり、人を受け入れることのできない弱さがあり、嬉しいことを共に喜ぶことのできない嫉妬心があり、悲しみを分かち合えない冷たさがあるのです。そんなズルさと、弱さと、貧しさという欠けだらけのわたしたちを神は「必要だ」「あなたが必要なのだ」そう宣言するのです。

わたしが行き詰まった時に、支えとしている言葉があります。パウロの召命の出来事を踏まえて、もう一言付けます。「神はその人の力に余る試練を与えない。試練には、それに耐える力と、逃れる道と、そして主の御用をなすための助け手を備えて下さる。」神が示して下さった、「わたしが選んだ器なのだ」「わたしがあなたを選んだのだ」その御言葉を両手で抱きしめるようにして携えながら、一歩ずつでも、半歩ずつでも、キリストを見上げながら歩んで参りましょう。神は必要な助け手を備えて下さいます。

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