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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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ガリラヤの村ベトサイダで出会った一人の盲人を主イエスは癒しました。この盲人とは私たちのことです。主イエスは、村の外でそうしたように、私たちと一対一で向き合って下さり、両手を当てて下さっています。

主イエスは、盲人の目に両手をあてながら言われました。「何か見えるか」彼は応えます。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」注意したいのは、その見え方は明瞭ではなかったことです。「人がぼやけて木のように見える」とは私たちの心の目の状態を表しています。見えてはいるが、はっきりと見えていない私自身がここには描かれているのです。

ペトロの信仰告白の場面が続きます。「あなたはメシアです」とのペトロの告白には、「生涯あなたに従っていきます」という信従が込められていたでしょう。しかし、ペトロはこの時、イエスがメシアであるこの真の意味、この方に生涯従って歩む真の意味をはっきり理解していたのでしょうか。いいえ、ペトロもまた、見えているようで見えていないのです。だから、主イエスが、ご自分の苦難と死を予告した時、と、主イエスを力づくでわきへ連れ出して、「そんなことがあってはなりません」(マタイ16:22)と、諫めたのでした。

ペトロにとって、メシアと仰ぐお方が苦しみを受け、屈辱を受け、殺されるなど、はあってはならないことでした。しかし、実のところは、メシアを信じて従う「自分」に苦しみが及ぶこと、「自分」が屈辱を受けるということこそあってはならないことだったのです。実は、どこまでも主イエスではなく、自分のこと、周りの状況に囚われているばかりのペトロです。だから、主イエスは言われました。「サタン引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」(33節)と。

ここで私たちも問われます。私たちは、主がいつも共にいて下さる、と信じます。しかし、本心では自分に襲い掛かる人生の苦しみ、覆い被さる悩みを、「とんでもないこと!あってはならないこと!」と拒絶し、嘆き続け、絶望するばかりだとすれば、それはキリストを信頼し、キリストに従うということとはずれています。

十字架の苦難を担われた主イエスの後に従っていくということは、私たちもまた人生の苦悩をこの身に受け止めて生きていくということと切り離せません。それはただ、苦悩を辛抱し続けるという受け止め方ではなく、あるいは、苦しみを苦しみとも思わなくなるということでもなく、十字架を背負うその先に、復活という思いがけない希望が備えられていたように、自分を覆う苦悩の中でも、主の愛のゆえに希望は欺くことがないと信頼しつつ、一歩を踏みだしていくことです。

「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」(34節)これは重く厳しい招きです。ペトロは、かつて、穏やかなガリラヤ湖で初めて聞いた「私についてきなさい」(マルコ1:17)という温かい主の招きを、十字架の苦しみと死という暗さの中で再び告げられました。私たちにとって、穏やかで明るい時には、「あなたに従います」と決意できても、人生の深い悩み、恐れが迫るその時に、「主よあなたこそキリスト、あなたに従っていきます」と信頼を貫くことは困難です。むしろ、「こんなことあってはならない!」と否定し、拒絶したいのです。

信仰を告白したペトロ、しかし、彼はまだ、イエスという方がおぼろげにしか見えていません。盲人は言いました。「人が見えます。木のようです。でも歩いているのが分かります」。この言葉は言い得て妙です。それはまるで、十字架という木を背負って、ゴルゴタの丘を歩く主イエスの姿を暗示しているかのようです。なにゆえ主イエスは十字架を背負ってあの丘を登ったのか、その意味が分からない時、私たちもただ「木のようなものが歩いている」としか目に映らないのです。

主イエスは、なぜ十字架を背負わねばならなかったのか。それは、この世で排除された人々、悲しむ人、病める人、いと小さきもの一人一人に対する神の愛の真実を伝えたがためでした。なんとしても神の愛を、赦しを伝えねばならない人があそこにいる、ここにいる。そのためならば、律法という枠組をも乗り越えていったがゆえに、律法違反者、神を冒涜した者として裁かれたのでした。
そして、主は十字架上で、「わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか!」(15:34)と叫びました。それは、この世で絶望の淵で呻き叫ぶ者の苦悩を自らのものとして共に味わい、そんな彼らの存在を決して忘れてはおられなかった証しです。
絶望し、呻き、叫ぶものがおれば、一方で貪りと傲慢に囚われた者がいます。主イエスは、ご自分を裁き、嘲り、傷つけるものたちの盲目な罪のゆえに十字架に架けられながらも、「神よ彼らをお赦し下さい。自分が何をしているか知らないのです」(ルカ23:34)と執り成しました。

どこまでも愛し、共に痛み、執り成した十字架の主。どこまでも私たちのために命を尽して下さった主の愛をおぼろげにみて、私たちは他の何をはっきりと見ることができると言えるのでしょう。

主イエスは、盲人にもう一度で手を置かれました。本当に見るべき、知るべき主の愛と執り成しを彼が見て、その命を生かされていくために。私たちもまた、二度、主の御手を置いて頂いている者です。いや、何度でも主は手を置いて下さる。信じますと言いながらも、信じ得ないもののために。その手のぬくもりを心に感じることができるならば、深い苦しみ悩みで固く閉ざすその目は、悲しみの涙を流しながら閉ざすその目は、光を見出していくのです。

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