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@生きるにせよ死ぬにせよ主のもの

子どもの頃、逝去者記念礼拝の準備が整えられた静かな礼拝堂で、並べられた写真を眺めるのが妙に好きでした。沢山の人に見つめられている気がしてきて、やがて生と死の境界線が曖昧になってくるような不思議な感覚に包まれるのでした。生も死もみんな神様のものなのだという包容感だったのかもしれません。

「生きるにしても死ぬにしても私たちは主のものである」(ローマ14:8)そうパウロは言いました。私たちは、「生」と「死」という二つの事実に分けて世界を捉えようとします。そして生きていくこと、死んでいくことについて随分と思い煩い、心騒がせる私たちです。しかし、生きる時も死の時も、自分は主のものとされているのだ、その事実だけは絶対に変わらないのだ、というところに救いがあります。この逝去者記念礼拝において、私たちは死者を弔い、悲しみを繰り返すために集まっているのではありません。この方々の姿を思い起こしながら、生も死も愛の内に全くとらえていて下さり、どんな悲しみにも驚くべき希望を備えていて下さる神様を信頼して、ここから改めて一日一日を大切に生きていく時なのです。

A記念されている私たち

「わたしたちは、おびただしい証人の群れに囲まれている」(ヘブライ人への手紙12:1)

私たちはこれらの愛すべき、また信仰の模範とすべき人々に囲まれながら、信仰の旅を続けているのです。私たち自身の信仰というものは、決して誇れるようなものではなく、むしろいつも揺らぎやすく、細やかなものでしかないかもしれません。それでも、そんな私たちが「今日もまた主を見上げて生きていこう」と願う小さな信仰者の一人であるために、これらのおびただしい人々の信仰と生涯は決して無関係ではないのです。彼らの存在、そして信仰生活があったから、そうやって神様が働いておられたから、今日、わたしたちがこの場で共に一つの礼拝を捧げているという一つの事実に結びついているのです。今、記念されるのは、逝去者たちだけではありません。実は、こうして礼拝に集まった私たち一人一人を、神様はその御心に深く記念し、喜び、導こうとしておられるのです。

B信仰の創始者、完成者であるイエスをみつめながら

私たちの信仰は、その始めから終わりまで、羊飼いである主イエスによって守られ養われ導かれるものです。私たちの努力とか熱意によるのではありません。キリストが信仰の「創始者」であり「完成者」であるということは、スタート地点とゴール地点にだけ立って見守っていて下さるということではなく、徹頭徹尾ということです。私たちは、主イエスを見つめることを忘れると、そこでたちまち途方に暮れてしまうのです。そして、「祈っても仕方ないではないか」「聖書を読んでも仕方ないではないか」「教会に行ったって何も変わらないじゃないか」そんな不満、無力感に覆われてしまうのです。今日のみ言葉は、あなたの為すべきことは一つ「主イエスを見つめよ(この人を見よ)」というのです。十字架で苦痛の極み、絶望の極みを味わいその死を引き受けていった主イエス、「この人にぞ、こよなき愛は現れたる」(♪280「馬槽の中に」)のです。この愛だけが信仰の旅の一歩を始めさせ、そして完成へと伴い歩み続けて下さるのです。

愛する父母、兄弟姉妹、我が子との別れ、その悲しみが幾度となく押し寄せる時にも、そして自らの死を迎えなければならない時も、このイエス・キリストに現わされた神の愛こそが、私たちの本当の力となり、神の備えておられる未来への一歩を与えてくれるのです。

今、私たちを取り囲む逝去者の方々は、挙って「主イエスを見つめよ」と背後の十字架を指し示しておられるのかもしれません。日々ここを始めとし、また立ち帰る場所としながら、共にイエスを見つめてここから再び走り出してみましょう。

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