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主イエスは、律法学者たちを神殿の境内で公然と批判しました。彼らに注意せよ、しなやかな服を着て滑らかに祈っているけれども、それは自分を宣伝するだけのパフォーマンスに過ぎない、と。一見親切な微笑みをたたえているけれども、実際には貧しいやもめを蔑んで食い物にしていると。たとえ、どんな権威や知識があっても、一粒の真実な祈りがないならば、それがどんなに空しく、醜く、不幸であるか。主の憤りと なお限りない憐れみが彼らに向けられます。

そこで主イエスは、一人のやもめの姿を指し示します。律法学者たちによって食い物にされていたやもめです。

エルサレム神殿の中庭で、お金持ちが多額の献金をしているその脇で、一人のやもめが献金をしているのを主はご覧になられました。その額レプトン銅貨2枚。金額としては僅かなものでも、それが彼女の生活費すべてでした。まさに「何一つ持たないで、私は主の前に立つ。主の恵みがなければただ死ぬほかない命」(讃美歌21−453)なのです。献金とは、主の前に立つ者の祈り、主の恵みに生きる者の祈りそのものです。この時、やもめが献げた祈りが、感謝の祈りなのか、嘆きの祈りなのかは分かりません。しかし銅貨二枚は、己の一切を主に献げ委ねる一粒の祈りを帯びていました。

見事な石組みと奉納物で飾られたエルサレム神殿の維持・管理を思えば、お金持ちの献金は現実問題として重要でした。そして人間はそういう多額の献金に一目を置きやすいものです。しかし、主イエスは、神殿の壮麗さとか、学者たちのうやうやしい祈りとか、お金持ちの多額の献金といった世の賞賛や尊敬を浴びているものの陰で、覆い隠されてしまいやすい一人の貧しき者の真実な祈りの姿を忘れてはおられません。いや、そうした祈りこそが神殿を神殿足らしめるのです。

主イエスは、この形骸化した神殿がやがてはローマ帝国によって破壊し尽されるものであることを厳しく見通しておられました。「あなたがたはこれらのものに見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」(21章6節)と言われるのです。神殿の造形、祈りの姿、お金に囚われているとすれば、それは本来目を注ぐべき神を見失った偶像礼拝に近いとさえ言えるかもしれません。

さて、私たちは祈る度に「アーメン」と唱えます。それは「ピリオド」を意味するものではありませんし、単に誰かの祈りに賛同する「異議なし、賛成」の発声でもありません。それは「真実である」ということです。私たちの祈りというものは、神様に聴いて頂くにはあまりにも拙くあるいは相応しくない祈りであるでしょう。しかし、だからこそ「アーメン」(主こそ真実!)と祈るのです。

また私たちは「イエス・キリストの名によって」祈ります。それは、自分の願いを沢山詰め込んだ祈りの最後に「この祈りは自分名義では効き目がありませんから、イエス様のお名前で聴いて下さい」という、名義を変えるテクニックでしょうか。いいえ、イエス・キリストの名は祈りを神に聴いてもらうための「手段」ではなく、私たちが神に向かって祈ることのできるただ一つの「根拠」です。イエス・キリストこの方が、私のために命を献げて下さった、というただ一つの完全な犠牲のゆえに、神をわが父とさえ親しく呼び掛け向かい合う道が与えられているのです。イエス・キリストの名のゆえに祈れる私たちであり、主こそ真実(アーメン)と告白するのです。これは決まり文句ではなく、祈りの中核・頂点です。

一切を献げた貧しいやもめの姿。そこから私たちは、神様がご自分の一切であるイエス・キリストを世に献げて下さった愛を思い起こすよう促されています。独り子をさえ与えたという、その信じがたい愛を、今日あなたに信じてほしい、そのように私たちは今日も招かれています。

私たち自身が神の愛の宿る神殿です。ここが形だけはなく、真の祈りの家として、神の愛と赦しを分かち合う群れとして、また福音を世に証していく器として用いられていくために、私たちはもう一度、主に愛された自分自身の生活を見つめ直し、精一杯の感謝の応答を献げていきたいと願います。

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