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円山墓地に眠るドーデー宣教師(1844〜1919)の墓には、英語でこう刻まれています。I shall see him face to face ,and I tell the story“Saved by Grace”(やがて彼(主)と顔と顔を合わせるでしょう。そこで伝えよう、救いの恵みの物語を) 墓の脇に10メートルほどのニレの木が立派にそびえているのを見上げながら、ドーデー宣教師の召された後も長く続いてきた札幌北光教会の、120年に亘る「救いの恵みの物語」を思いました。

ある人々が主イエスに率直に尋ねました。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は断食しているのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか」(18節)洗礼者ヨハネの集団や、ファリサイ派の人々は、しばしば断食を通して罪の悔い改めをしました。しかし、主イエスはそれとは対照的に、社会の中で白眼視されている人々と共に、いつも祝宴を囲みながら、福音を告げ知らせていたのです。

主イエスは、彼らにこう理由を説明しました。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」(19節)。主イエス曰く、今は「結婚」の喜びの時なのです。花婿がイエスであるならば、花嫁とはガリラヤの民衆です。社会から嘲られ、抑圧された人々です。貧しい者、病める者、生きることに躓き傷ついている者に救い主が遣わされ、出会われたという出来事を、結婚の祝いに譬えたのです。傷ついたこの一人が、しかし確かに神の愛に照らされた世の光であり、神の愛で味つけられた地の塩であるという喜びが告げ知らされる祝いの時なのです。そうであるならば、今は悲しみに打ちひしがれ、後悔や懺悔の思いに塞ぎ込みながら断食する時ではなく、神の愛を感謝し、喜びを分かち合う時だというのです。 神とは、私たち人間に、罪を嘆きいつも暗鬱な顔で生きていくことではなく、心から喜んで生きる者となることを望まれる方です。

さて、主イエスはこうも言われました。「織りたての布を切って、古い服に継ぎはぎを当てたりはしない」、「新しいぶどう酒を古い革袋に入れることはしない」。古い服に織りたての生地を継ぎあてすれば、古い服の生地は引き裂かれてしまいますし、出来たてのぶどう酒を、古く堅い革袋に保存すれば、その膨張力で袋は、張り裂けて両方が無駄になってしまいます。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」これは生活の常識でした。しかし、この常識を「信仰」という事柄に当てはめるならばどうでしょう。私たち自身が古い革袋のように凝り固まった信仰に留まっているならば、イエス・キリストの福音という新しいぶどう酒、すなわち日々新たに人を生かす喜びと希望の知らせを受け止めることはできないのです。 主イエスは、凝り固まった伝統や常識(律法遵守による救い)を打ち壊さなければ、決して救われない人々がいることを知っていたからこそ、人々が心に持つ古い革袋の中に新しいぶどう酒を注いだのです。そして、人々の心は弾力のある新しい革袋に「改革」「変革」される必要があったのです。

私たちは、聖餐において杯に与り、キリストが十字架で流された血潮を想い起こします。それは「新しいぶどう酒」を私たちの内側に注ぐことにほかなりません。この杯に示されている、主の限りない赦しと愛を味わう時、私たち自身が新しい革袋とされていく必要を確認するのです。そして私たちが、一部分だけキリストを「継ぎはぎ」しながら生きているのではなく、全くもってキリストを身にまとっていること、ただこの方の命によってこそ生かされていることを確かめる業です。イエス・キリスト、この名を私たちの拠り所とする時に、断食ではなく、喜びの祝宴としての聖餐が行われるのです。

札幌北光教会は120周年を迎えました。120年前の教会の誕生は、新しいぶどう酒が、新しい革袋に注がれた出来事でありました。牧師、宣教師、そして本州から幻を抱いてやって来たキリスト者たち、彼らの口を通して語られたキリストの福音は、人々の心を新しい革袋とさせました。120年が経過した今、キリストの福音は古臭くなってしまったでしょうか。福音はその芳醇な香りを失い、味の深みを通りすぎ腐敗してしまったでしょうか。いいえ、キリストの福音は、様々な問題が取り巻くこの時代にこそ、新しいぶどう酒として注がれています。

今日、この歴史の先端に立っている私たち自身が、いかに主の愛に応えて生きていこうとしているのか、このことを抜きにして、ただ120年という時の経過を誇るならば、それは空しいものです。121年目を歩み出す時、過去を懐かしむことが奨められているのではありません。今、私たちはイエス・キリストの生きた福音を蓄えた新しい革袋として、隣人に注いでいくものとなりましょう。そこで生み出されていく「救いの恵みの物語」をここから更に紡いでいくものでありたいと願います。

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