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過ぎ越しの祭りのお祝いの席でイエス様は、弟子の一人の裏切りを予告なさいます。「わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ…人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかったほうが、その者のためによかった。」重たい言葉です。弟子たち一人一人をこよなく愛されたイエス様が、本当にこんなふうにおっしゃったのでしょうか。

注目したいのは、イエス様が、ご自分を裏切る者と同じ鉢に食べ物を浸しているという事実です。裏切る弟子の近くに席を取っておられるということです。ここで使われている「浸す」という言葉「バプトー」は、バプテスマ、つまり洗礼という言葉のもととなった言葉です。イエス様も、公の活動を始められるにあたって、ヨルダン川で洗礼を受けられました。罪にけがれた人々が何十人も何百人も身を沈めた川に自らも身を浸されました。

それと同じ姿が、ここで示されているのではないでしょうか。ユダと同じ水に指を浸すことをいとわなかった姿は、罪びとが身を浸している川にご自分も身を沈めた姿に重なるのではないでしょうか。罪にまみれたこの社会にどっぷりと浸かって、出会う人々を清め、赦し、愛し、救おうとした姿に、重なるのではないでしょうか。だとすれば、同じ水に指を浸すことを赦されたユダにも、その赦しと、愛と、救いは、差し出されているはずです。哀れみのまなざしすら、きっと向けられているはずです。

その思いを強めてくれるのが「不幸だ」と訳されている言葉です。これはギリシャ語では「ウーアイ」といううめきです。日本語の「ああ」に相当するような、嘆きの声です。主イエスはうめいておられるのです。決して「不幸な奴!」とののしっているのではありません。その証拠が13章の17節にあります。大きな苦難が来るときに容易に逃げられない、身重の女と乳飲み子を持つ女は「不幸だ」とおっしゃっているのも、同じ「ウーアイ」なのです。弱い者に対するイエス様の哀れみを思えば、明らかにこれは、「可哀そうに!」という嘆きです。

ユダに対しても、そうだったのではないでしょうか。この弱い弟子がこのあと味わう後悔、苦悩、自責の念。それを思うと、私の胸は張り裂けそうだ――それが、「ウーアイ」が表す思いではなかったでしょうか。「生まれなかったほうがこの者のためによかった」というお言葉も、「お前なんか生まれてこなければよかったのに」という呪いの言葉とは思えません。もしそうであれば、イエス様は「わたしのために」とおっしゃるはずです。これは、自分は生まれてこないほうがよかったと思ってしまうほどの苦悩を味わう者に対し心を痛めてやまない、哀れみの言葉に感じられます。鉢に入っていたのは塩水でした。過ぎ越しの食事では、エジプトで流した涙を思い出すために塩水の鉢が置かれたのです。ここで主イエスは、ユダが流すことになる涙を、先んじて分かち合っているようにすら感じられます。

こののち主イエスを見捨てて逃げた弟子たちも、裏切り者には変わりありません。わたしたちもまた、すぐに主イエスを裏切ります。助けを必要としているとなり人よりも自分の都合や欲を優先するのは、弟子の道から外れる裏切りの行為です。みんな同じ、罪びとです。でも、イエス様はそのような私たちの傍らで、おなじ鉢にパンを浸して食事をしてくださいます。そしてきっと、こうおっしゃっているのではないでしょうか。「そんなお前を贖うために、わたしは血を流したのだ。しかし、わたしはすでに赦している。わたしの赦しを受け取りなさい。わたしの愛のうちにとどまりなさい」。私たちが裏切ってしまうとき。私なんかいないほうがいいと思うとき。主イエスは「ウーアイ」と言葉にならない呻きを発し、涙の鉢を分かち合ってくださいます。

ですから私たちは、その愛と赦しに応えて生きていきます。赦され、愛されている喜びに満たされて、自分も愛する者、赦す者として生きていきたいのです。すべての人と、食事の器を分かち合って生きていきたいのです。今週、神様は私たちそれぞれを、誰の横に置こうとしておられるでしょうか。親しい友人や大好きな仲間ではないかもしれません。主イエスに倣って鉢を分かち合うことができますように。

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