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北光幼稚園のページェントの台本には、大きな星という役があります。博士たちを導くこの素敵な役を見ながら、ふと、「この星はいつ頃から、どのように光っていたのだろうか。」と思いました。随分前から光っていたのか。ヘロデが二歳以下の子どもを殺したとありますから、二年近く前から光っていたのかもしれません。他の星よりも際立っていたのか。色々と思いましたが、案外この星は、他の星とそう変わらない光り方だったのかもしれないと思うのです。なぜなら、占星術の学者であるにも関わらず、星を見失い、ヘロデ王にイエスさまの場所を尋ねているのです。きらきらと大きく光っていたなら、自分たちで探し当てることができたのではないでしょうか。それに、エルサレムの人々も、ヘロデも、その星の存在に気付いていなかったからです。

祭司長や律法学者は、主イエスのいる場所が「ユダヤのベツレヘム」であると、分かったのにも関わらず、主イエスのもとへ行くことはありませんでした。エルサレムの人々にとって、救い主は我々のために、我々が見つけるものだという常識にとらわれていたのかもしれません。こんな東から来た外国人が、しかも占星術という救い主とはほど遠い存在である人たちが見つけるはずがないと思っていたのでしょう。しかし、占星術の学者たちは、星のきらめきに導かれてやってきました。その小さな光に目を留めて旅をしてきました。それは、今まで自分たちが虐げてきた国の小さな赤ちゃんにひざまずくためです。

今まで強いとみられてきた東の国の人たちが、今、踏みにじられてきた弱い、もっとも小さな赤ちゃんにひざまずき、高価な捧げ物をする、という姿があり、そこにはへりくだりと謙虚さがあります。謙虚になるには、愛が必要です。愛とは、自分の何かを削って他者のために用いることです。また愛とは、常識と思うことも越えていくものです。常識ではここまでしてあげたら終わり、のところが愛には終わりがなく、自分の時間も労力も財力も用いていかなくてはなりません。私たちは時おり、常識では、普通なら、というものに覆われて、エルサレムの人々が、自分たちに救い主が与えられるという常識にとらわれていたように、愛をかけるべきものを見落としてしまうことがあるのではないかと思うのです。

私はこの箇所を読むたびに、「説教の準備」か「母の里子のお見舞いか」で迷ったことを思い出します。金曜の朝、私は説教の準備の方が大切だと考えそちらを優先しようとしました。日曜の説教を終えてから見舞っても、入院期間には十分間に合ったからです。しかし、「愛を優先させなさい。自分の子どもだったらすぐに駆け付けるはずだ」と祖母に言われ、説教の準備は大切ではあるけれども、それをもっともなことと言い訳にし、新幹線代だってばかにならないし、自分の時間を犠牲にしたくなかった、という本当の思いを祖母に見透かされたように思えました。そして、「愛」ということを牧師として説教で語っているにも関わらず、自分の子どもと血のつながりのない弟への思いが違っていた私の心をまざまざと見つけ恥ずかしくなりました。私は大急ぎで新幹線に飛び乗り、自分の愛のなさを反省しました。そして私には、この博士たちの見た星のきらめきを自分の都合を優先させる思いに曇らされて、きちんと見ることができなかったと思わされました。

占星術の学者たちは、常識的にはイエスのもとに駆け付けるような人たちではなかったかもしれません。けれども彼らは、主イエスは私の救い主と信じ、高価な贈り物を用意し、非常に長い時間をかけて旅を続けてきたのです。 なぜなら、そこには愛の生涯を歩まれるイエス、最後には十字架にかかるという常識では考えることのできない愛を見つけたからにほかなりません。

私たちは、ベツレヘムの星に気付くことができるでしょうか。自分の明るい光の中に、自分たちの常識だと思っているなかでは、見ることのできない小さな星に目を留めるものでありたいと思います。夜空の小さな星のきらめきを見つめるように、この世の暗闇の中で小さくきらめいている命の光に私たちは、心を、体を動かされ、愛を優先するものでありたいと思います。

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